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【KIJ-横浜中華街】いばやも大丈夫だったから、みんなもきっと大丈夫だよ。

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クアラルンプールを経由して、東京から新潟まで原動機付き自転車で移動をした。東京からはるばる新潟までゲストが遊びに来てくれたので、日本酒を飲んだり、海鮮料理を食べたり、卓球やビリヤードをしたり、日本海を眺めながら何もしない時間を過ごしたりしてた。


そしていま、いばや二周年の生誕記念(?)を祝賀するイベントを終えて、ひとり横浜中華街にある喫茶店にいる。移動が続いているために、比較的頭がぼんやりとしている。イベントで話したことなどをベースに、最近思うことあれこれをまとめます。

1・いばやのはじまりとまゆ。


坂爪「わたしと一緒にいばやをやっているMAYUとは、一応高校の同級生なのですが当時は一言も会話をしたことがなかったのです」

MAYU「うん」

坂爪「私たちは新潟高校という名前の、一応新潟ではいちばん頭が良いとされている進学校に通っていて、そこは大学進学率も100%みたいな場所だったのですが、当時、MAYUだけは大学に行かないで服飾の専門学校を選んだという出来事が校内でも話題になってざわめいたことがあって」

MAYU「なんか、担任の先生とかも『MAYUさんも大学に行くんですよね』ってまるでそれが当たり前のことみたいに言うから、わたしも逆に『絶対に行かない!』とか思っちゃって」

坂爪「俺も、それを見て『かっこいい!』とか思っちゃったりして、で、それからふとしたきっかけで三年前くらいに東京で再会を果たしたのですが、そこで謎の意気投合を果たして『何か一緒にやろう!』ということになって、誕生したのがいばやのきっかけです」

2・自分を驚かせることをやろう!


坂爪「それで、いばやは『とにかくやばいことだけをやる』というコンセプトで生まれたのですが、それまでのわたしは自分で料理教室的なものを主宰しながら生計をたてるみたいなことをしていたのですが、だんだん『お客様満足を考える生き方』みたいなものがつらくなってきてしまって」

MAYU「うん」

坂爪「で、俺がいちばん楽しませたいのはお客様じゃなくて自分自身なんだということを確信して、よし、と思っていままでやっていたことを全部やめて『とにかく自分が心の底から楽しいと思えることをやろう。自分が100楽しんでいれば、周囲のひとも80くらいは楽しんでくれるはずだ』って思って」

MAYU「うん」

坂爪「そうしたら、当時からアートに携わっていたMAYUが『芸術とはOMG(オーマイガッ!何だこれは!という感覚)である』ということを言っていたのですが、わかる、すごいわかると思ったわたしたちは一緒にいばやをやることになったのですが」

MAYU「今回の二周年は、ただの二周年じゃなくて、設立当初にいばやが掲げたいくつかの仮説があながち間違っていなかったことの軽い証明みたいなものにもなっていて」

坂爪「うん」

MAYU「自分を驚かせることをやろう!っていう思いからはじまって、自分たちがやばいと思うことをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人たちがあらわれて、化学反応が起きて、結果的にとんでもないわっしょい状態になるとか、世界は未来に行きたがっているから、自分たちが未来にとって必要なことをやっていれば、必ず誰かが助けてくれる(自分たちは生かされていく)はずだとか、あとは自分たちのセンスに賭けるしかないよね、というような仮説を立てたのです」

3・いばやは真空である。

坂爪「それで、二年間経ってみて、いまもこうして生きているということは『あながち間違っていなかった』ということになるんじゃないか、ということで、今回は『いばやも大丈夫だったから、きっとみんなも大丈夫だよ』というようなことを感じられる空間になればいいなと思って」

MAYU「うん、そうだね」

坂爪「いばやは真空みたいなもので

MAYU「うん」

坂爪「いばやという謎の真空が発生すると、その穴を『埋め合わせようとする力』みたいなものが働いて、その力によって自分は生かされているということを感じるんだ。いばやはからっぽだから、何かが入ってくる、みたいな。俺も何もないからっぽの状態で、何もない自分がいやになっちゃうこともあるんだけど、だけど、何もないからこそ生かされているって感じることもあって」

MAYU「うん」

坂爪「自然は真空を嫌うっていう言葉を聞いたことがあるんだけど、いばやの真骨頂は『からっぽであること』なんじゃないのかなって最近は思うんだ。何もないから、そして、何もないことを隠さないでオープンにしているからこそ、想像を超えたものがどんどん入ってきているという感覚があるよ」

4・「どっしり」から「軽やか」


MAYU「多分、未来のキーワードのひとつに『軽い』っていうのがあると思うんだけど」

坂爪「うん」

MAYU「いままでは『どっしり』っていうのが、良しとされてきたと思うんだ。大企業につとめて、結婚をして、子供を生んで、一軒家を建てて、出世をするみたいな『自分をどんどんとどっしりさせていくこと』が、そのまま『しっかりと生きる』ということだと思われてきたと思うんだけど」

坂爪「うん」

MAYU「でも、こういう従来の価値観に違和感を覚えるひとも増えてきていて、わたしなんかもすごいそう思うんだけど、これからは『どっしり』から『軽い』っていうのが、タンポポの綿毛みたいなフットワークっていうのかな、そういうのが未来のキーワードになると思うんだ」

坂爪「それはほんとうにそうだね」

MAYU「多分、わたしとけーちゃん(坂爪圭吾)に共通しているのは、人生に対して『軽い』っていうことだと思うんだ。けーちゃんは『家を持たない生活』をしていて、いろいろなひとから『大変じゃないですか!?』とか言われているけれど、多分、そういう人たちは『家を持たない生活』をものすごい重いものとして考えているけれど、けーちゃん自身は軽く考えている、というか」

坂爪「こんなことってできるのかな、できたら面白そうだな、それならば、よし、やってみるか!っていう感覚に近いから、『是が非でも成功させてやる』みたいな風には思っていないかな」

MAYU「単純にさ、家がない生活って(自分がやるとかやらないとかは別にして)おもしろいと思うんだよね。だから、あまり重苦しくとらえるんじゃなくて、みんなにこういう実験を気軽に面白がってもらえたらうれしいよね」

5・予測不可能が面白い。


坂爪「家がない生活も偶然はじまったものなんだけど、こういう『規定の枠をちょっと外れたこと』をやると、自分でも想像できなかった面白い目にあえるのが興味深くって」

MAYU「うん」

坂爪「家がなくなったら家が増えた(いつでも泊まりにきていいよと言ってくれるひとが増えた)とか、日本全国から世界各国までいけるようになったとか、こういう予測不可能性に溢れた出来事が自分は好きなタイプの人間なんだなあということがわかったんだけど」

MAYU「わたしも多分、それは同じだよ

坂爪「なんかさ、学校では将来の夢とか目標がしっかりしているひとほど褒められて、多分、予測不可能性に溢れた人生を生きたいなんて言ったら怒られるだけだと思うのね。俺も、自分がどうなりたいのかとか、将来の夢とか目標を持てずに悩んだ時期とかあったんだけど、でも、よく考えてみたら『想像できないから面白いんじゃないか!』って思うことの方が圧倒的に多くて」

MAYU「うん」

坂爪「それなのに、夢や目標がないと『ダメな人間』だって烙印を押されちゃうことばかりで、何よりもつらいのが『自分で自分にダメ人間だという烙印を押してしまうこと』だと思うんだ。でも、冷静に考えてみると(結末のわかる映画が退屈なように)自分の人生がどうなるかわからないからこそ、面白いんじゃないかっていまは考え方が変わったような気がしているよ」

6・仙台の奇跡「Rさんの話」


MAYU「この前福島県にいたときに宿がなくて困って、SNSから『誰か今夜泊めてください!』ってお願いをしたんだけど、この投稿をしたら、驚いたことに仙台に住むRさんというまだ会ったこともない女性から『じゃらんのポイントがあるからホテルを手配しておきますよ』って連絡が届いて

坂爪「あれはほんとうにすごかったね

MAYU「それで、まだ一度もあったことのない私たちのためにホテルまで予約をしてくれて、お礼のメールを送ったら『これはわたしがやりたくてやったことなので、お礼なんていらないですよ。おかげで今夜は気持ちよく眠れそうです』とか、神様みたいなことを言ってくれて!!

坂爪「すごいよね…素晴らしいよね…そして、翌朝、Rさんから『昨日はあまりにも気持ちよく眠れたので、もしよかったら口座番号を教えてください。ご迷惑でなければ、応援の資金を振り込ませていただけたらと思います』っていう連絡ももらっちゃったんだよ」

MAYU「神様!!!!!」

坂爪「この気持ちをうまく言葉にすることができないんだけど、ただでさえホテルを手配してくれているのに、そこからたたみかけるように優しさのミルフィーユを浴びせてくださるRさんのような方がいるのかと思うと、なんていうか、日本はすごいな、人間ってすごいな、みたいな気持ちになっちゃうよね」

7・スーパー良い出来事とスーパー悪い出来事はイコール。


MAYU「わたしの中では、出来事には良いとか悪いとかはなくって、あるのは熱量の総量だけ、みたいな風に感じることがあるんだけどね」

坂爪「うん」

MAYU「スーパー良い出来事と、スーパー悪い出来事は、イコールだと思うの。うわーーー!!!ってなって、何かを感じる。熱量の総量においては、良いも悪いも関係ないんだな、って

坂爪「それはすごいよくわかる気がするよ」

MAYU「そしたらさ、普通は得をしようとか有利な道を選ぼうとかって考えちゃうけど、マイナスも楽しむことができたら最強じゃん!!って思うようになって」

坂爪「プラスを楽しむことは簡単だけど、マイナスを楽しむことは、精神的に余裕がないと難しいよね。センスのある損をする奴が新しい、だね」


8・「成功する自由」もあれば「失敗する自由」もある。


MAYU「いまはまだ、当たり前だけど『みんなが得をしようとしている』からこそ、損界(損の世界)においては、まだまだみんなど素人だと思うのね」

坂爪「なんか、イメージとしては『得する道は大渋滞を起こしているから、結果的に大して得をすることができない』みたいな感じはあるよね。だからこそ、損の道であればスパパパパーってめちゃめちゃ気持ちの良い感じで疾走することができる、みたいな」

MAYU「多分、最初はマイナスに見えることでも、巡り巡ってプラスになって帰ってくることは絶対にあると思うんだ。だから、いまは、自分から損をする奴が新しいんだと思うのね。そして、いばやは、その先駆者になる。損界においてはみんなまじでクソダサいのがいまだから、いばやを軸に『良い損』と『悪い損』の実例を増やしていく、みたいな感じで機能したら面白いよね」

坂爪「当たり前だけど、成功する自由もあれば失敗する自由もあるんだよね。失敗って敬遠されがちだけど、失敗から学べることもあるし、単純に、失敗こそ最高の思い出になることもあるよね」

9・批判されてもへこまない。


坂爪「最近はすごい思うんだけど、自分のベースはダメ人間であるということを忘れたくないというか、だからこそ『いばや』とかいう訳のわからないことをやっているんだっていうか」

MAYU「うん」

坂爪「こういう生き方をしていると、どうしても批判されることがあるんだけど、自分がクズだってことは自分が一番よくわかるのね。だって、これはもう、情けなくなるくらい自分は自分なんだもん。ただね、そんなクズでも『生きていることができているよ!』とか『こんなんでもうまくいったよ!』みたいなことが言えたらいいなあって、それで、駄目なら駄目で『やっぱり駄目でしたー!!』って笑い飛ばせたら、それはそれで大成功なんじゃないのかな、って」

MAYU「そうだね」

坂爪「将来の夢はなんですかとか、目標はあるのですか、いまでもこういうことを尋ねられることはあるんだけど、そういうことをしっかりと考えることができる人間だったら、最初からいばやなんて頭の悪いことはやっていませんよ、みたいなことを思っちゃうんだ」

10・いばやも大丈夫だったから、みんなもきっと大丈夫だよ。


MAYU「でも、無事に二年間死ななかったね」

坂爪「これはもう、ほんとうにお世辞抜きで『皆様のおかげです』に他ならないです」

MAYU「こんないばやでもどうにかなっているのだから、みんなもきっと大丈夫だよ、きっとうまくいくよ、っていうことが少しでも伝えることができたらうれしいね」

坂爪「そうだよね。そのままでいいし、そのままがいいし、取り繕うことのない自然のままの姿こそ、いちばん素晴らしいんじゃないのかなっていうことを、最近は凄い感じているよ」

MAYU「これからも、どんどん面白いことをやっていけたらいいねー!」

坂爪「だね!」

MAYU「いばやも大丈夫だったから、みんなもきっと大丈夫だよ


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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
TEL:07055527106 or 08037252314
LINE:ibaya keigosakatsume@gmail.com

【TYO-国立】僕の後ろを歩かないでくれ。僕は導かないかもしれない。僕の前を歩かないでくれ。僕はついていかないかもしれない。ただ僕と一緒に歩いて、友達でいてほしい。

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昨夜、東京の国立市で開催されたトークイベントに出演(?)した。過去にも定期的にトークイベントをやっているために、何度も来てくださる方もいれば、はじめて参加してみたという方々もいる。参加者の年齢層に偏りはなく、10代から60代まで、あらゆる年代の方々が足を運んでくれる。


私は、ひとりで物事を考える時よりも、ひとと話すことで思考がまとまるタイプの人間なのだと思う。そこで受けた質問の数々をベースに、最近思うことあれこれをまとめます。

1・坂爪さんのような「家を持たない生活」や「お金がなくても世界をバンバン飛び回るような生活」は、誰にでも可能だと思いますか?

坂爪「やる必要があるかどうかはさておいて、これは誰にでも可能だと思います。ただ、すべてがうまくいく保証はどこにもありませんし、私の真似(?)をして『ぼくもこれから坂爪さんのように家のない生活をはじめたいと思うので、誰か家に泊めてください!』などと言い始めるボーイや、『ぼくもこれからは他力本願でどこまで生きられるかを試したいので、自分の口座を晒すので誰か振り込んでください!』などと言い始めるボーイを見かけることは増えました」

来場者「私も稀にそういう人を見かけます」

坂爪「正直に言うと、そういうひとを見ても『きっとうまくいかないんだろうな』という気持ちしかしません。別に何かで力になりたいとも思えないし、まあ、好きなようにやればいいよ、という風に感じます。こういう現象を見たときに、ひとの力を借りるためには何かしらのコツがあるのかもしれない、と思うようになりました」

2・何が人間のこころを動かすと思いますか

坂爪「先日、横浜の中華街で開催したイベントに、私の友人である阿部という男性が遊びに来てくれました。話の流れで『阿部さんは、何かやりたいことはありますか?』ということになり、そこで、阿部は『俺は野球が大好きで、とりわけ西武ライオンズが大好きで、過去に西武ドームを20万円程度で貸し切って野球をやったのだけれど、それが最高に気持ち良かったから、今度は広島のマツダスタジアムを貸し切って皆で野球ができたらいいなと思っているんだというようなことを話してくれました」

来場者「阿部さんとは、いばやの設立のときに50万円をくれたという、伝説の阿部さんですか?

坂爪「そうです。伝説の阿部さんです。そして、伝説の阿部調べによると、マツダスタジアムは数万円あれば借りることができるそうで、何かこう、阿部の話を聞いていたら『みんなで野球をするために横浜から広島まで行って、帰りに牡蠣でも食べて帰ってくるのも悪くないな』みたいな雰囲気が生まれているのを、私は勝手に感じました」


3・ひとの力を借りるためのコツとは何ですか?

坂爪「言い換えるならば、その場には『阿部さんの夢を実現させようとする力』が動き始めているのを感じました。もちろん、阿部さん自身は『こういうことを達成したいので、誰か僕を助けてください!』みたいな言葉は何も発していません。ただ、阿部さんは『自分は最高に野球が好きだ』ということと『広島のスタジアムを貸し切って、普段は行かない場所まで足を運ぶことができたら、多分、絶対に楽しい』と思っていることを、自身の態度で表明しただけに過ぎません」

来場者「はい」

坂爪「何が言いたいのかというと、阿部さんの話には『みんなが幸せになる方向で』という非常に重要な要素が大いに詰まっていたからこそ、それを聞いている人たちの中に『実現させようとする力』が働いたのだと思います。逆に言えば、家のない生活に挑戦したいので誰か家に泊めてくださいとか、金のない生活に挑戦したいので誰かお金を振り込んでくださいという態度には、みんなが幸せになる方向で、という要素が圧倒的に抜けている(自分のことしか考えていない)ような気がします」

4・坂爪さんが色々な体験をできているということは、坂爪さんの存在が「みんなを幸せにする方向で」作用しているということですか?

坂爪「それはわかりません。そのように言ってもらえることもあれば、一方では、まだ会ったこともない人たちから『死ね』とか『消えろ』ということを言われることもあります。誰かに面白がってもらえているのと同時に、誰かの気分を害していることも確実です」

来場者の主婦「正直に言うと、私も、普段は子育てなどの家事に追われているので、そういうときに坂爪さんのブログを見ると『チッ!』って思うことはあります」

坂爪「おお!素直!」

来場者の主婦「それでもなんで坂爪さんのブログを読むのかというと、気分だけでも、自由の風を浴びることができたらいいなあとは思っているんです」

5・坂爪さんを批判するひとたちは、何が気に食わないのでしょうか?

坂爪「前に国立で開催されたイベントで、実際に足を運んでくれた50代の主婦の方から『正直に言えば、私は坂爪さんのことが嫌いです。それで、どうして嫌いなのかを考えてみたのですが、私がいままで我慢して我慢してようやく達成することができたこととかを、坂爪さんは何も我慢しないで達成しているように見えるからなんだ、ということがわかりました』と言われました」

来場者「おお」

坂爪「これは想像の域でしかありませんが、おそらく、こうした『スキップしちゃっている感』が気に食わないのだと思います。普通なら我慢しなければ味わうことが許されなかったものを、何も我慢しないで味わっているように見える私の存在が、まるでその人自身の考え方や生き方そのものを否定しているように見えてしまうのだと思います」

6・突然ですが、坂爪さんには目標はありますか?

坂爪「どうしてそれが気になるのですか?」

来場者「というのも、いままでの私は目標などをしっかり持つことが大切だと思っていたのですが、最近ではそういうものをあまり持てなくなっていて、これは決して落ち込んでいる訳ではないのですが、自分はこれを達成するために生きているというものがいまの自分には何もないんです」

坂爪「はい」

来場者「それで、坂爪さんみたいな(自由に生きているように見える)ひとは、目標とかは持っているのかなって思って、それでこの質問を投げかけてみました」

坂爪「ありがとうございます。お聞きしたいことはなんとなくですがわかりました。そして、正直に言うと、この質問にはあまり答えなくないなあと思いました」

7・どうして「答えたくない」と思ったのですか?


坂爪「これは非常に失礼な発言になってしまうかもしれませんが、あなたが『単純に安心したがっている』だけに見えたからだと思います。たとえば、私が『目標はありません』と言えば、あなたの中では『目標なんてなくてもいいんだ!』みたいになって安心できるんだと思います」

来場者「はい」

坂爪「ただ、この場では『目標なんてなくてもいいんだ!』と思えたとしても、また別の場所で『目標を持たない人間は猿と同じだ』というようなことを発言しているひとを見たら、多分、あなたは再び目標を持つことについて悩み始めるような気がします」

来場者「はい」

坂爪「何が言いたいのかというと、自分の外側に答えを求めている限り、永遠にぶれ続けるということです。自分が目標なんてなくもいいのだと思えれば、別に目標なんてなくてもいいと思います。ただ、それが『あの人もそう言っていたから』ということが理由になると、多分、ぶれ続けると思います」

8・坂爪さんと似たようなことを、仏教のひとや瞑想の先生も言っていたのですが、坂爪さんは瞑想をしているのですか?


坂爪「瞑想などはしていません。仏教についても詳しい知識は持ち合わせていないので、自分が仏教的なのかどうかということも、あまりよくわかりません。ただ、様々なジャンルのひとたちが、別々の言葉で『同じようなことを話している』ということは、なんとなく分かる気がします」

来場者「はい」

坂爪「ひとによってはそれを『普遍性』と呼ぶ場合もあるし、『本質』とか『真理』とか『自然の摂理』みたいに呼ばれる場合もある思います。別に呼び方はなんでもいいのですが、わたしは『自然の摂理に従っていれば物事はうまいことまわっていくけれど、それに逆らうと、なんだかんだでうまいこといかなくなる』という風に感じています」

9・自然の摂理とは何ですか?


坂爪「それはひどく当たり前のことですが、朝になれば太陽が昇るとか、夜になれば暗くなるとか、生まれてきたものは必ず死ぬということや、花は枯れてまた咲くとか、鳥が飛んでいるとか、魚は泳いでいるとか、生命は循環しているとか、宇宙にも形があるとか、そういうことです」

来場者「それのどこが摂理なんですか?」

坂爪「自分でもあまりよくわかっていないのですが、多分、この世の中には『人間の摂理』と『自然の摂理』の二種類があって、もちろんかぶっている部分もあるのですが、絶妙に噛み合っていない部分もあって、(人間の摂理ではなく)自然の摂理に身を委ねていれば勝手に生き延びることができるけれど、 自然の摂理に逆らったことをやろうとすれば、割と早い段階で廃れてしまう気がしています」

10・最近は何に感動しましたか?

坂爪「最近出会った男性が『僕は感動を大切にして生きていきたいんだ』と話していました。感動という言葉は不思議なもので、それがあった方がいいに決まっているし、それを求めて生きようとする態度は褒められたものだ、という風になりやすいと思います」


来場者「はい」

坂爪「ただ、この男性の話を聞きながら、わたしは不思議な感覚を覚えました。いままでは、自分自身も『感動が大事』だと思って生きてきたつもりだったし、事実、そのような内容のブログ記事を書いてきたりもしてきました。しかし、いまの自分はもうそこにはいないのだと思ったのです」

来場者「はい」

坂爪「誤解を恐れずに言うと、感動が大事だと話す男性を見て、わたしは『ああ、この人は(いまはまだ)感動をしていないんだな』と思ってしまったのです。男性は感動の外側にいて、感動に触れることが大事だと話しているように見えたのです」

来場者「はい」

坂爪「その話を聞きながら、ああ、自分は(うまいこと言えないけれど)既に感動の内側にいるのだなあと思いました。ちょっと前の自分は『感動を味わうために生きている』と思っていたはずなのに、いまの自分は『感動の中を生きている』のだと思ったのです。そして、ああ、自分は変わったんだなあと思いました」

来場者「なんだかよくわからないけれど、印象的な話ですね」

坂爪「カミュというひとの言葉に『世界の優しい無関心』というものがあるのですが、最近では、このカミュという男が残した言葉が妙に頭をよぎることがあります。いまの 自分が感じているようなことなど、とっくの昔に他の誰かが考えていた(感じていた)ことなのだと思うと、別に人間は何も変わってはいないのだなあと、嬉しさにも似た感情を抱きます

来場者「はい」

坂爪「そして、生きていることそれ自体が、ほんとうは奇跡のようなものなんだなと感じるようになりました。これらは自分の外側にあるものではなくて、多分、誰もが既にその内側を生きているのではないだろうかと思っています」


人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya keigosakatsume@gmail.com

【KIJ-日本海】必要なものは既に備わっている。ー 自分の身体は自分が好きなもののために使おう。

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東京を経由して新潟に入り、来月行く予定のロシアに入国するために、ロシア領事館でビザ取得の手続きを済ませた。本来であれば、今日から台湾に行ける予定だったはずが、ビザの申請のために一時的にパスポートを預ける形になってしまい、あろうことか、台湾行きがオジャンになってしまった。

結果的に、8月いっぱいはまるごと予定が空いてしまった。どなたか(もしいらっしゃれば)大量の時間を持て余している坂爪圭吾を召喚してください。日本国内であれば、基本的には何処でも行きます。所持金が数千円しかないために諸々の制限はかかってしまうのですが、ご連絡お待ちしております。

【坂爪圭吾のスケジュール坂爪圭吾

1・宮城県でいばやのイベントを企画してくださる方を募集しています。

奇跡的な出来事は連続しておこるもので、前々回のブログ記事でも紹介させていただいた仙台のRさんから「宮城県の桂島から見える朝日がほんとうに素晴らしいので、ホテルも手配するので、時間さえあればいばやの皆さんで是非遊びにいらしてください」というご連絡をいただいた。

時期は9月2日から4日界隈を予定しているのですが、いばやには夢があります。それは「いばやのみんなで全国ツアーをしたい!」というもので、6月に新潟県で開催した大感謝祭があまりにも楽しかったもので、こうしたイベントを全国各地でやれたらいいなあと思うようになりました。

具体的には、9月4日(金)の夜辺りに、仙台界隈で何かを開催してくださる方がいてくださると非常にうれしいです。いままでが「続きはWEBで」だとしたら、これからは「続きはリアルで」というものになるのだと思います。もしもいばやに関心を持ってくださる方がいらっしゃいましたら、是非、お気軽にお声かけください。


2・(宮城県と言わず)全国各地からのオファーをお待ちしております。

ポイントは交通費で、悲しいことにいばやのメンバーは誰ひとりとしてまともな所持金を兼ね添えていません。今回は、仙台の女神R様の存在により、仙台界隈までは足を運べることになりました。「せっかくみんなで仙台まで行けるのだから、何かしら打ち上げて帰りたい!」というのが本心です。

そのためには、非常に気前の良いひとの存在が必要になります。「まったく仕方がないなあ、よし、ここは俺(私)がひと肌脱いで、多少の会場代金は自分(自分達)負担してやるよ」と言ってくれるひとの存在が必要になるのです。

「いばやを呼びたい!(いばやをこねくりまわしたい!)」と思ってくださる方がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。連絡先はブログ末尾に記載されています。しかし、この男、人間的な欠損を多大に抱えているために、返信が遅い(あるいは返信をしない)場合もありますが、何卒、ご理解いただけましたら幸いです。

3・単純に坂爪圭吾が暇をしています。

冒頭でも述べた通り、まさかの展開で8月いっぱいがど暇になってしまいました。現在は新潟県にいるのですが、9月以降は海外遠征(?)に出かけてしまうために、なかなかひっつかまえることが難しくなる坂爪圭吾という人間を、是非、この機会にご利用(?)ください。

個人的な希望を綴ると、現在は新潟県にいるのですが「県外からのゲストが新潟県まで来てくれることが頻繁にあるのですが、美味しい料理が食べられる店を何も知らないので非常に困っています。しかし、所持金が少ないために、美味しい料理を出してくれる店を開拓する余裕もない。そこで、坂爪圭吾に『あそこの料理は最高に美味いから、お前にも知ってもらえたら嬉しいし、ご馳走してやるぜ!(そして県外からのゲストが来たときは、是非ここを紹介してやってくれ!)』という展開になったら、どれほど素晴らしいことになるだろうか…!!!」などと思っています。

4・新潟県には「何もない」がある。

おかげさまで、現在では様々な方々がいばやに会うため(?)に新潟県まで足を運んでくれるようになりました。これはもう新潟市からも助成金をもらっていいレベルなんじゃないだろうか、とも思っているのですが、そのような気配が生まれることはなく、身内で粛々と回しています。

新潟には何もないけれど、何もないということが最大の魅力になるのかもしれない。日本海に沈む夕日を眺めながら、ただ座っているだけでもそれなりの多幸感を味わえます。テントを張ってBBQをしてもいいし、読書でも、ギターを弾いても、踊っても自由で、最近は「野営で食べるしゃぶしゃぶが(片付けも非常に楽で)かなり美味い」ということを発見しました。

5・自分の身体は自分は好きなもののために使おう。


夕日を眺めながら、当たり前のことだけれど「五感には賞味期限があるのだ」ということを思いました。最近、わたしは、非常に人間的な魅力を覚えるひとと出会いました。いままでの自分だったら「なんて素晴らしいひとがいるんだ!」と、相手の存在に感謝するような気持ちになっていたのですが、今回の出会いはちょっと違いました。

大袈裟な表現ですが、そのひとと出会うことで、まるで「自分の身体の価値が向上する」ような感覚を覚えたのです。そのひとの笑顔を見ることができるのは私に視力があるからで、そのひとの声を聞くことができるのは私に聴力があるからで、私に日本語を話せる能力があるからこそ、そのひとと会話を交わすことができる。

そして、私は「自分の身体は自分が好きだと思えるものに使おう」というようなことを思いました。そう思えたときに、自分の身体には価値があるのだということをはっきりと実感したのです。

6・「おかしいのは自分なんだ」と思ってしまうと鬱病になる。


私は自分の連絡先を公開しているために、様々な方々から連絡が届きます。一日に平均して20件から30件程度の連絡をいただいているために、すべてのメールに返信をすることが難しいのですが、ひとつひとつはしっかりと目を通しています。

連絡をくださる方々の中には、過去に鬱病で悩んでいた方や、現在も精神的な問題と格闘を続けている方もいて、鬱病というものについて考える時間がちょっとだけ増えてきました。私自身も過去に統合失調症躁鬱病椎間板ヘルニアのトリプルパンチをくらって半年間寝たきりになったものの、貧乏性とビリーズブートキャンプのマリアージュによって、奇跡の復活を果たした経験があります。


7・レールを踏み外したとしても、大地はある。


わたしは、このいばや通信というブログの最後を、いつも「人生は続く」という言葉と共に締めていいます。これは「ここはまだ途中である」ということなどを意味しているのですが、これは鴨長明方丈記マインドを勝手に継承している(行く川のながれは絶えずして的な)つもりで書いています。

所詮、この世は諸行無常変わらないことは何もなく、そのことが悲しく響くこともあれば、そのことによって救われることもたくさんあると思います。ただ、ひとつだけ変わらないことは「でも、生きている」ということなんじゃないだろうかと思っています。

レールを踏み外したとしても、大地はある。大地はあるからこそ、こうして生きることができている。生きることができているということは、どうにかなっているということの最大の証明であり、乱暴にまとめるならば「大丈夫だ」ということになるのだと思っています。

8・大前提として「生きているだけでいい」


レールの上を歩くことができて、はじめて人間としての価値が認められるというのは、順番が逆なんじゃないだろうかと思います。大前提として「生きているだけでいい」のであり、人間としての価値が認められようが、世間から冷たい視線を浴び続けていようが、生きていることに変わりはありません。

生きているだけでは足りないと思ったときに、ひとは、ほかのもので何かを埋め合わせようとするのだと思います。しかし、そういうときは欠落感というか「もっと、もっと」というマインドに容易く侵されてしまう為に、非常に不健全な状態(出口のない迷路)に迷い込んでしまっているのではないかと思います

9・必要なものは既に備わっている。


多分、大切なことは「自分にないもの」よりも「自分にあるもの」であり、必要なものは既に備わっている。言葉は感情の容れ物で、どのような気持ちを込めるのかで、それを聞く人のこころにも様々な感情を生み出すものになるのだろうと思います。

10・五感には賞味期限がある。


謎の富豪が現れて「君は家がないんだろ?君の視力と引き換えに、東京に豪邸を買ってあげよう」的なことを言われたとしても、私は豪邸よりもこの両目が好きなので、当たり前のことだけれど、お断りすると思います。

自分の両親と引き換えに絶対的な権力を与えると言われてもお断りするし、同じように、自分の聴力と引き換えに100億円をあげると言われても、私は100億円よりは自分の聴力の方が好きなのでお断りすると思います。

そのように考えると、既に、自分にはとてもじゃないけれども金に換えられない価値が備わっているのだということを知ることができます。そして、自分の身体を「(自分ではない)自分が好きなもの」のために使い果たして死にたいと思った時に、不思議と、自由の風が吹いたような気がしました。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya keigosakatsume@gmail.com

【KIJ-東京】自意識を吹き飛ばしてくれるものを見つけること。

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新潟を経由して東京に入った。今日は、これから千葉県の山間部に向かい、夜は東京の国立市で開催されるイベントに登壇(?)する。昨日は、東京の日暮里で伝説のマイフレンド・みっつさんと話をした。最近思うことあれこれを、みっつさんを聞き手に迎えてまとめます。


1・自由を主張するひとほど、不自由に見える。

坂爪「昔、今年の抱負をみんなで書く『書き初め大会』みたいなのが行われていて、そこに足を運んだことがあるんだけど、そこで小学校の女性教師が『笑顔』って書いているのを見たのね。で、それを見たときに、ああ、この人は笑顔がつらいんだろうなあって思ったんだ」

みっつ「はい」

坂爪「あとね、他にも『即実行』みたいなことを書いていた男性教師のひともいて、これはとても性格の悪い反応なのかもしれないけれど、それを見たときに、ああ、この人はきっと即実行できていないんだろうなあって思ったんだ」

みっつ「はい」

坂爪「これと似た感じだと思うんだけど、最近では『自由を主張しているひとほど、不自由に見える』ように感じるようになってきていて、同じように『自分の正当性を主張しているひとほど、正しさから遠く離れている』って感じるようになったんだ」

2・正義は、正当化する必要がない。

坂爪「最近では様々なひとからメールで連絡をもらったり、実際に会って話す機会とかも増えたんだけど、なんだろう、言葉にも『潤っている』言葉と『乾いている』言葉の二種類があって、当たり前だけど潤っている言葉には素晴らしい音楽を聴いているときのような好感を覚えるんだけど、乾いている言葉には触れているだけでも嫌気を覚えるのね」

みっつ「はい」

坂爪「表情ひとつとっても『潤っているひと』と『乾いているひと』がいて、正しいかどうかよりも、俺の中では『潤っているかどうか』っていうのは非常に大事なことなんだけれど、自分の正当性を主張するほどに、多分、言葉って乾いていくんだろうなって思ったの

みっつ「はい」

坂爪「そういうのってわかる??」

みっつ「ぼくも、最近は正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとか、そういうことはできるだけ考えないようにしているのですが、多分、正義は、正当化する必要がないものだと思います

坂爪「おお!みっつ!ナイス汲み取り力!なんかさ、さっきも言ったけど『自分の正当性を主張しているひとほど、正しさから遠く離れている』ようなイメージがあるんだよ

3・「本当にそう思う」と「本当にそうである」は完全に別物。

坂爪「多分、ほんとうに正しいものって『誰が見ても正しいもの』だと思うのね。『人は必ず死ぬ』とか1+1=2』であるとか、誰にとってもそうであるということが、所謂正しさなんじゃないのかなって。それに対して、たとえば『人生は素晴らしい!』とか『原発推進派は間違っている!』とか『自分が好きなことをやるべき!』とか、こういうのって、ただその人がそう思っているだけというか

みっつ「はい」

坂爪「『本当にそう思う』と『本当にそうである』って、似ているけれど完全に別物で、それは単純に自分がそう思っているだけなのか、すべてのひとにとってそうであることなのか、これをちゃんと分けて考えることが大事な気がするのね」

みっつ「はい」

坂爪「当たり前だけど『本当にそう思う』からといって『本当にそうである』とは限らないし、いまの俺は『俺がどう思うか』なんていうことは結構どうでもよくて、それよりも『すべてのひとにとってそうである』ということは何か、みたいなものに自分の興味が向いているんだ」

4・「どう生きるか」よりも「生きているとはどういうことか」

みっつ「ぼくは坂爪さんとこういう話をしている時間が好きなのですが、前に、坂爪さんが『考えている時間って自由になれる』って言っていたことをたまに思い出すんです。考えている時間というのは、無になれるというか、自由になることができているような気がします」

坂爪「みっつ…!!

みっつ「はい」

坂爪「最近ね、哲学の本とかを読む機会が増えていて、俺はいままでまったくそういう本を読む機会がなかったからすごい新鮮な気持ちでいるんだけど、たとえば、哲学では『どう生きるか』よりも『(そもそもで)生きているとはどういうことなのか』のほうが、ずっと大事なことらしいんだよ」

みっつ「はい」

坂爪「俺はまるで見当違いなことを話しているのかもしれないけれど、生きているとはどういうことなのかをわかっていないのに、どう生きるかなんてことを話せる訳がないだろうと、哲学ではそのように考えるみたいなんだ(全然違うかもしれないけど)」

5・生きていることは「夢を見ていること」

坂爪「俺も、最近では『生きているとはどういうことだろう』みたいなことを結構考えるようになってきているんだけど、それがもう全然何なのかわからないんだ。でね、そんな自分に愕然とするというか、俺は30年間というこの日々無為に過ごしてきたんじゃないのだろうかとさえ思うんだよ」

みっつ「はい」

坂爪「非常に唐突な話ではありますが、みっつさんにとって『生きている』って、どういうことだと思いますか?」

みっつ「そうですね」

坂爪「はい」

みっつ「夢を見ていること』だと思います」

坂爪「おお…!!」

みっつ「これはぼくの中では不思議とずっとあったイメージなのですが、生まれて来る前は『全部』だったと思うんです。そして、生まれてきた瞬間に何もかもを忘れて『0』になって、そして、死ぬ時にまた『全部』になるような、そんなイメージがあるんです」

坂爪「おお…!!」

みっつ「いま見ているものは、全部イメージなんじゃないのかな、って」

6・「境目はある」のか「境目はない」のか。

坂爪「みっつ、すごいなー!!」

みっつ「坂爪さんにとってはどうですか?」

坂爪「それが全然わからないんだよ」

みっつ「はい」

坂爪「でもね、みっつの話を聞いていたら、なんとなく自分が昔から思っているようなことを思い出した。いま、うちらって、たとえば目の前にあるコップを見ることができるけれど、ほんとうはコップなんてなくて、というか、コップと自分との境目なんてほんとうはなくて、コップを構成している原子も自分を構成している原子も根本は同じものだから、たまたま『コップを形成している(自分を形成しているだけ)』だけの違いでしかないんじゃないのかな、とか、そういうことを思う」

みっつ「はい」

坂爪「『それはほんとうにあるのか?』とか『あると思っているだけで、ほんとうはないんじゃないのか?』みたいなことを結構考えてしまうことがあって、だから、みっつが言う『いま見ているものは、全部イメージ』という言葉には、謎に共鳴している自分がいるぜ」

7・やりたいことはないけれど「やりたくなる」ことはある。


坂爪「みっつって、夢とかあるの?」

みっつ「なんでそういうことを聞くんですか

坂爪「ぐへへ…

みっつ「坂爪さんがいちばん嫌う類の質問ですよね

坂爪「ぐへへ…」

みっつ「坂爪さんはどうですか?」

坂爪「ないです」

みっつ「ないんですか」

坂爪「うん、ない。まったくない。やりたいことが何にもないんだ。そして『やりたいことが何もない』自分のことをダメだなあと思うこともあるんだけど、なんていうんだろう、世の中には『やりたいことがたくさんある人は良い』みたいに思われている感じってあると思うんだけど」

みっつ「はい」

坂爪「そして『やりたいことがない奴は無気力で良くない』みたいな風潮もあると思うんだけど、そういう意味では、俺は自分のことをダメな人間なんだろうなって思うのね。だけど、同時に『やりたいことがたくさんあるということは、実際はつらいことなんじゃないだろうか』とも思うの」

みっつ「はい」

坂爪「安易な例だけど、それって『スケジュールの余白は心の余白!』みたいな感じで、何もしていない時間に耐えられないから常に予定をいっぱいにしておくときの心情と似ているというか、自分の中から余裕が失われている状態というか、ちょっと不健全なんじゃないのかなって思うようになって」

みっつ「はい」

坂爪「自分の中に『やりたいこと』としてストックされているものはほとんどないんだけど、時折、何かをやりたくなるときがあるの。やりたいことはないんだけれど、やりたくなることはあるんだ。それは昔から自分の中にあったものなのかもしれないけれど、最近は、その感覚に従って生きているような気がするんだ」

8・自分にはまだ体温が残されている。


坂爪「いままでは生きているだけでいいとか思っていたけれど、生きているとはどういうことか、生きていないとはどういうことか、生きていないのは悪いことなのか、とか、そういうことを考えるといろいろとわからなくなってしまっていて」

みっつ「はい」

坂爪「だけどね、自分の生命は自分の意思を超えたところで『生きたがっている』んだなって感じるの」

みっつ「はい」

坂爪「俺は俺の心臓のリズムをコントロールすることはできないし、かさぶたをつくろうとする身体の働きを止めることはできないし、髪は伸びるし、細胞は生まれ変わるし、なんていうんだろう、生命は生きようとしているし、自分を使い果たそうとしているのを感じるんだ」

みっつ「はい」

坂爪「俺は過去に家も金も仕事も全部なくなって、まあ、これはいまでもないんだけど、その時に『自分にはなにもないじゃないか』ってすごい強く思ったのね。だけど、冷静に考えてみると、これだけは残っていると思えるものがひとつだけ、間違いなくあったの。それが『自分の身体の体温』で、自分にはまだ体温が残されている、それならばこの熱を生かすしかないって感じたんだ」

9・最高の応援は「一緒に生きる」こと。


坂爪「みっつも前に『応援しています!っていってくれるひとほど、(別に何かをしてもらいたい訳じゃないけれど)何もしてくれないんだろうなあって感じます』って話してくれたけど」

みっつ「はい」

坂爪「なんかね、最近は『最高の応援は一緒に生きること』なんじゃないのかって思うようになったんだ」

みっつ「はい」

坂爪「たとえば、俺はみっつと過ごす時間が楽しくて好きだけど、別にみっつにこうあってほしいとか、みっつがこうしてくれるから一緒にいたいとか、なんだかそういう条件みたいなものはあまりなくて、ただ、お互いに『生きている』ことを確認し合ってるような感覚が好きだから会っているというかなんというか」

みっつ「はい」

坂爪「何も言わなくてもいいから、何もしなくてもいいから、ただ一緒に生きるということは、最高の応援になると思うんだ。そのためには、自分も生きなくちゃいけない。それは強制されたからそうするというものではなくて、自分がそうしたいと思うからそうする、自分が『生きたい』と思うから生きる、そういう瞬間瞬間に生命を燃焼させるような在り方が、結果的に周囲のひとも勝手に照らしたりするのかな、とか、そういうことを考えていました」

10・自分を吹き飛ばしてくれるものを見つけること。


坂爪「なんかね、もう、ほんとうに自分のことなんてどうでもいいんだと思う。これは自暴自棄になっている訳ではなくて、逆で、自分なんてどうでもいいと思えるくらいに自分を吹き飛ばしてくれるものと出会えた時に、ああ、俺は最高にハピネスな状態に置かれているなあとか、そういうことを感じるみたいなんだ」

みっつ「はい」

坂爪「誰かに好かれることを気にしているうちは、意識が自分に向いてしまっているから、多分、その過程は結構つらくてしんどいものになると思うんだ。だけど、誰かに好かれることではなくて『誰かを好きになる』ことに関しては、意識は自分ではない他のもの(自意識を超えた所)に向いているから、自分なんてどうでもよくなれると思うの」

みっつ「はい」

坂爪「俺は海や空が好きなんだけどね」

みっつ「はい」

坂爪「『圧倒的なスケール』が好きで」

みっつ「はい」

坂爪「自分なんかどうなってもいいと思えるくらいに、自分を差し出せるものを見つけることとか、自分を強化させることよりも、自分を吹き飛ばしてくれるものを見つけることが、生きていることの醍醐味なのかもしれないって思ったんだ」

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【HND-新潟】個人的な体験から、普遍性を見出すこと。

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関東圏での予定を終えて、新潟市内に戻ってきた。早朝の新潟の空が綺麗で、太陽の光がピラミッドのような三角形を形成していた。早朝の気温は低く、青空が澄み渡っていて、私は、麗だなと思った。都内に比べて、地方都市には高層ビルの数が圧倒的に少ないために、相対的に空を広く感じる。


最近思うことあれこれを綴ります。

1・やりたいこともなければ言いたいこともない。

東京都内で開催された「坂爪圭吾のお話会」的なものに登壇(?)してきた。毎回、東京都内で定期的に私を招待してくれて、告知や集客を行い、小規模なイベントを開催してくださるYさんという女性がいる。私は、個人的な恩義をYさんに感じているために、自分の都合がつく限り力になりたいと思っている。

しかし、私には「絶対にこれを話したい!」と思うことがない。誰かに強く訴えたいこともないし、最近の自分が感じていることなどは、既に、このブログ記事などを通じて書き切ってしまっている。だから、大勢のひとの前に出ても、特に話すこと(言いたいこと)がないので、毎回、困ってしまう。

Yさんは、そんな私を横目に見ながら「坂爪さんは特に話したいこともないそうなので、せっかくの機会ですし、実際に坂爪さんに聞いてみたいことなどある方は、何でも遠慮なく聞いてください」というような内容の発言と共に、時間を進めていく。

2・「聞きたい」ではなく「言いたい」だけ。

このようなイベントに参加をしてくれるひとたちに共通点は少なく、年代もバラバラ、職業もバラバラ、この場に来た動機もバラバラで、興味本位で足を運んだだけのひともいれば、深刻な悩みを抱えてやってきた人もいる。一見普通そうに見えるひとでも、相当な過去を抱えていたことが判明することもあり、多様な人間模様を観察(?)することができる。それを楽しみに足を運んでくれるひとも多い。

Yさんが「質問のある人はいますか?」と、会場全体に投げた。

すると、私の隣に座っていた30代半ばと見られる(デザイナーとか広告代理店とかで働いていそうなお洒落な風貌をした)男性が「それなら、ちょっといいですか」と話し始めた。男性の質問は、要約するとこのような感じの内容だった。

「普通のひとは、会社などで働いているので、1日のなかでどうしてもやらなければいけない幾つものタスクを抱えていると思うんです。だから、余裕をなくして大事なことを考えることもできなくなってしまう。だけど、坂爪さんには『やらなければいけない』というタスクがない。たとえば、僕なんかも、日常を離れて旅に出たりしたときは『そういうタスクから自由になることができている』という感覚を覚えることができて、だからこそ、自分の感受性をいつもよりオープンな状態にしておけるというか、いつもは感じない気づきとかを得ることができるというか、だからタスクから自由でいられることってすごい大事なことだと思うんですけど、そして、多分、坂爪さんは常にそういう状態にあるのだと思うのですが、そんな坂爪さんにとって『やらなければいけないこと』とは何ですか?」

私は、男性の話を聞きながら「これは質問ではないな(私の意見を聞きたい訳ではなくて、自分の意見を言いたいだけだろうな)」と思ったので、男性に向かって率直に「これは『聞きたい』ではなくて『言いたい』だけですよね」と言った。その瞬間、会場が、軽く、凍った。

3・「質問する」という行為の難易度は高い。

大勢のひとと話していると、会話の難しさを感じる。Yさんは「質問はありますか?」と会場全体に投げかけるが、多分、質問というのはコミュニケーションの世界においても非常に難易度の高いもので、言うほど簡単にできるものではないのだろうな、ということを感じることが多い。

また別の女性が手を挙げて、自分の話をはじめた。

女性が話した内容は省略するが、私は、これも「言いたいだけ」だと感じてしまった。ひとの話を聞いているときに、これは面白い話だなあと感じることもあれば、このひとはいつまで自分の話をしているつもりなんだろう、早く終わらないかな、なんでこんなにも興味を持てないのだろうか、と感じることもある。

4・「そんなことを聞かれても困る」と思う質問の数々。

ある女性が「坂爪さんは、いままで様々な体験や様々なイベントを経験してきたと思いますが、そのなかでも、これは一番やばかったと思った瞬間はいつですか?」という質問を投げかけてくれた。私はこういう類の質問が物凄い苦手で、またしても困り果てて考え込んでしまった。

もちろん、いままでのイベントひとつとっても、散々罵倒されたこともあれば、参加者同士が取っ組み合いの喧嘩をはじめることもあったし、とっ散らかるときはどこまでも果てしなくとっ散らかる。しかし、そんなものは過去に過ぎないし、いま、自分が置かれているこのとっ散らかり具合も結構なものだなあ(そして、そのことを強く実感した方が確実に面白くなる)と思ったので、私は「いまも結構やばいと思います」と答えた。

私には「そんなことを聞かれても困る」と感じる質問がたくさんある。いままで見てきた景色で一番綺麗だったのはどこですか、とか、いままで食べた料理で一番おいしかったのは何ですか、とか、いままで出会ったひとのなかで一番すごいと思ったひとは誰ですか、とか、こういう質問を受ける機会が頻繁にある。そして、わたしは、その度に頭を悩ませながら「どうしてこんなことを尋ねるのだろう」と思ってしまう。

5・「うまくやろう」と考えるから行動が鈍る

わたしがあまりにも苦悶の表情(?)を浮かべるものなので、会場の雰囲気が非常にギスギスしたものになってきた。沈黙が続き、いかにも「発言しづらい」雰囲気が醸成されてしまった。Yさんにも、主催者という立場があるので「えーっと、それでは、今日はみっつさんも来てくれているので、みっつさんはいままで聞いていてどういうことを思いましたか?」という、半端ない無茶振りを発動した。

わたしは「まじか!」と思った。

このタイミングで「そのフリはえぐいな!」と思った。

しかし、みっつは素晴らしい対応をした。

「えっと、これは坂爪さんも前にブログで書いたり話していたりしたことですが、うまくやろうとしてしまう気持ちが邪魔をしてしまうことがあるのだと思います。何かを話さなくちゃいけないという気持ちから何かを話すのではなくて、自分が何かを話したくなったら話せばいいのだし、話したいことが特にないのであれば、余計な罪悪感とかを持つ必要はないと思うので、何も話さないでいればいいだけなのだと思います」


6・地獄のどんでん返し。

私は「今日のMVPはみっつだな」と思った。なんと素晴らしい返答(レシーブ)をするのだろうかと感動した。何かをしなくちゃいけないとか、こういう雰囲気のときはこういうことを言っておいた方が無難だとか、そういう思いからはじまる会話は、大抵の場合、退屈に終わる

しかし、またしてもどんでん返しが起きた。

私の隣に座っていた例の男性が「実は、ぼくもこの場の空気を感じながら、自分の気持ちがギスギスしちゃって非常に居心地も悪い思いをしていたので、もしも時間が許すのであれば、いまから5分間だけ時間をとって、この場にいる全員でハグをするというのはどうでしょう」という言葉を発した。

わたしは「まじかよ!」と思った。「この人は、みっつの話を聞いていたのかな」と思ってしまった。そして、私は男性に向かって「ごめんなさい、それはただのポーズでしかないと思いますし、私はそういうことを絶対にやりたいとは思いません」と言った。そして、5分間のハグをする代わりに、5分間のトイレ休憩が挟まれる形になって九死に一生を得た。

7・「答え」ではなく「問い」を共有する。

私は「仲良くなったつもりになる」くらいだったら、いまはまだ何も仲良くなれていないということをしっかりと実感した方が、よほどましなことだと思っている。握手をしたり、ハグをしたり、形だけの『友好のポーズ』をしてみたところで、わたしたちは、お互いのことを何も知らない。

コミュニケーションの醍醐味(?)は「答えを共有すること」よりも「問いを共有すること」にあると思う。わたしたちはひとりひとりが別人で、それぞれが、それぞれの考えを持ちながら暮らしている。誰かにとっての正解が、誰かにとっての間違いになることもあるし、誰かにとっては非常に重要なことが、他の誰かにとっては『まるでどうでもいいこと』でしかない場合は、掃いて捨てるほどある。

答えを共有することはできないし、答えを共有したいとも思わない(だからこそ面白いのだと思う)けれど、問いであれば共有することができる。会話の中で、自分たちは「答えを共有しようとしているのか」それとも「問いを共有しようとしているのか」で、その場の雰囲気は大きく変わるのかもしれない。

8・人と話しているのに「人と話している」と思えない。

わたしは人と話すのが苦手だ。人と話したいと思っているくせに、人と話している時に「人と話している」とは思えない瞬間が頻繁にある。そういう時のわたしは、ただ、相手の話を「聞く」ことしかできない。会話のキャッチボールをしているという実感は其処にはなく、ただ、相手の投げるボールを自分が受け取るだけだという、乱暴な言葉を使えば『自分の身体を使って相手のマスターベーションに付き合わされている』という風に感じることもあり、そういった時間のあとは、自分がすり減るような疲労を覚える。

ただ、そういう疲労を覚えている中でも、たとえばみっつの素晴らしいレシーブを目撃すると「お前!やるな!」という気持ちになる。そして、少なくともこの人は自分の感覚をわかってくれているな、というような気持ちになる。そして、この瞬間、自分の中にあるひとつの感情が強化されているのを感じる。それは、相手に対する『信頼』である。信頼は、当然だけれど金で買うことはできない。

9・個人的な体験から、普遍性を見出すこと。

「うまくやらなければいけない」という感情の正体はなんだろうか。そして、うまくやらないといけないという思いから発言される言葉の数々が、いかに無難で、いかに相手の心に届かない空虚なもので終わってしまうのだろうか、みたいなことを考えさせられた。

主催者のYさんから、イベント終了後に連絡をもらった。

「昨日思ったのは、個人的な話を、その話の本質を見て、普遍的な話にもっていけるか、、、チャレンジしたいなということです。圭吾さんを見倣いたいなと思いました。どうしても上っ面の予定調和的な話で安心しようとする自分がいるなと思いました」

10・普遍性は人間を自由にする。

Yさんからのメールを読んだ時に、ああ、自分がやりたいと思っていることはこれなんだな、と思った。坂爪圭吾という個人的な人間の体験から、どれだけ普遍性を見出せるかを知りたくて生きている部分が、確実にあるな、ということを思った。そして、それはそのまま「誰かと話す」ことの意味や意義になるのだろうな、ということを思った。

誤解を恐れずにいうと、大勢の人間が集まれば、当然、場も荒れる。(そこには何も普遍性がない)自分の話ばかりをするひとがいれば、巻き添えをくらうのは周囲の人間であり、おそらく、自分の話ばかりをしているその人自身も、その行為によって『自分を傷つけている』のだと思う。

多分、普遍性は人間を自由にする。だから、私は(もしも普遍的なものがあるとしたら)それに触れてみたいと思っている。当たり前のことだけれど、普遍的なものとは「自分にだけ普遍的なもの」ではなくて「誰にとっても普遍的なもの」だからこそ、普遍的なものになる。

これは、言葉を変えれば「自分たちは同じである」ということを確認したい(思い出したい・取り戻したい)と願う欲求のことかもしれない。そういうことを思った。夏が終わる。夏の終わりになると、不思議と寂しさを覚える。そういうひとは多いと思う。寂しさの正体は何だろうか。


人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【TOY-富山】誰かといたい、その「誰か」とは誰か。

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東京の赤坂で開催されたイベントを経由して、富山県に入った。高岡の地酒である『勝駒』という日本酒を飲ませていただいたのだけれど、まるでワインのようにフルーティーで美味く、べらぼうに酔っ払った。私は、普段はあまりお酒を飲まない。理由は単純で、所持金が少ないからだ。


赤坂で開催されたイベントのテーマは「ありのまま生きる」というものだった。主催者の方が「ありのままで生きているといえば坂爪さんでしょう!」といった感じで、非常に有難いことに声をかけてくれた。わたしは、自分のことを『ありのままで生きている』とも『ありのままで生きていない』とも思っていない。

要するに、ありのままであるかどうかということを、あまり気にしたことがない。ここ数日間、様々なひとから様々な質問をいただき、改めて、自分について考え直す機会になった。そこで話したことなどをベースに(大幅なフィクションを加えながら)最近思うことあれこれをまとめます。

1・坂爪さんは、普段は何をしているひとなのですか?

来場者「坂爪さんは、普段は何をしているひとなのですか?」

坂爪「うわ!その質問がいちばん答えづらいのです…誰か代わりに説明してください

司会「えっと、坂爪さんはわたしから見ると『アーティスト』なのかなって思っているのですが、一般的にはブログを書いているひとという認識がいちばん強いと思うので、ここは『ブロガー』ということでいいのでしゃないでしょうか」

坂爪「ありがとうございます。ブロガーで大丈夫です。はじめて私を見るという方に簡単な補足をすると、1年半くらい前から『家を持たない生活』というようなものを試していて、その活動(?)を通じて思ったことなどを『いばや通信』というブログに書いていたら、だんだん色々な場所から声がかかるようになって、イベントに出たり(出なかったり)しながら生きているという状態です

来場者「ということは、講演活動をしているのですか?」

坂爪「そういう訳でもなくて、イベントに出演することもあるのですがそれが本業という訳でもなく、文章を綴ることもあるのですがそれが本業という訳でもなく、自分にとって本業と呼べるものがあるのかどうかが謎、というか『(多分)本業がない』のです。でも、生きている、という

2・昔から変わっていたのですか?

司会「坂爪さんはどんなこども時代を過ごしたのですか?」

坂爪「えー!(驚きと戸惑いを隠しきれない)」

司会「はい」

坂爪「それは…(ここでめっちゃ考え込む)」

司会「はい」

坂爪「どうしてそれが気になったのですか?」

司会「え、えっと

坂爪「はい」

司会「坂爪さんは、同棲していた彼女と別れたことをきっかけに『家のない生活』をはじめることになったと話していますが、普通だったらそんなことはなかなかこわくて出来ないと思います。昔から、坂爪さんは変わっていたというか、そういうことを平気でやってしまうタイプの人間だったのですか?

坂爪「なるほど

司会「はい

坂爪「どうなんだろう…」

司会「はい

坂爪「あまり自分のことを変わっているとは思ったことがなくて(余談・自分のことを変わっていると自称するひとほど、あまり変わっているとは思ったことがない

司会「はい」

坂爪「多分、誰にでも『普通ならやらないことをやっちゃう瞬間』ってあると思うんです。で、それが、私の場合は『たまたま家のない生活をやってみた』というだけのことで、こんなことってできるのかな、家がなくても生活できたら家賃分が浮くから生活コストが下がって楽だな、とか、よくわからないけどとりあえずやってみようと思ってはじめたことがたまたまうまいことはまって、面白い現象に遭遇することも同時にできているので、とりあえず続けているというような状態です」

司会「そうなんですね」

坂爪「だから、自分に特別な勇気があったとも思わないし、自分だからできたのだとか思うこともできなくて、ただ、たまたまやったことが自分が想像していた以上の結果(?)を生んだので、これからどうなるのかをもっと見てみたいなあと思ったから続けているという状態です」

3・批判はこわくないのですか?

坂爪「あ、ただ、振り返ってみると『あのときのあれはベストチョイスだったな』と思えることが二つだけあります。ひとつは、家がなくなった時には金も仕事も何もなかったのですが、そして、金も家も何もないこの状態を『笑う道を選ぶか、泣く道を選ぶか』みたいなことを人生から思い切り突きつけられているように感じたのですが

司会「はい」

坂爪「あのときに、反射神経的に『泣くのはダサい!』と強烈に思い、とりあえず、笑う道を選ぼうと決めたことです。これがファーストベストチョイス。そして、セカンドベストチョイスは『徹底的に自分を出す』と決めたことです。当時、これは直感としか言えないのですが『自分を出さなければ、多分、俺は死ぬ。しかし、徹底的に自分を出せばもしかしたらどうにかなるかもしれない』と思ったのです」

司会「自己開示ですね

坂爪「結果論ですけれども」

来場者「質問があります」

司会「はい」

来場者「いまでも様々な批判があるとは思うのですが、そういう『自分を出す』という道を選んだ坂爪さんは、それをやろうと決めたときに、批判などはこわくなかったのですか?」

坂爪「えーっと」

来場者「はい」

坂爪「それに対しては二つのことが言えるのかなと思ったのですが、ひとつは『こわくありませんでした』ということで、これはもうひとつの理由にも繋がるのですが、もうひとつは『こわがっている場合ではなかった』ということです」

来場者「なるほど」

坂爪「批判を受けることよりも寝る場所がないことの方が深刻だったので、そんなことを気にしている場合ではなかった、というのが正直なところです。そして、この生活を続けていてなんとなく感じるのは、たとえば私が『どや!家がなくても人間は余裕じゃ!家のある生活をしている奴らは愚かじゃ!』みたいな感じの(自分を肯定するために他者を否定するような)発言をしたら、批判も相当数来るとは思うのですが、ただ、自分の身に起こったことだけを淡々と言葉にしている限りは、意外と『それを見てくれているひとも一緒に面白がってくれるものだ』ということを感じています」

4・坂爪さんには恐怖や不安はないのですか?

別の来場者「質問があります」

司会「はい」

来場者「坂爪さんのブログを読んでいると、行間から恐怖や不安というものをまったく感じないのです。代わりに感じるのは『軽さ』のようなものなのですが、それはいったいどこから来るのですか?」

坂爪「えー!」

来場者「はい」

坂爪「軽さですか…」

来場者「はい」

坂爪「なんだろう…」

来場者「はい」

坂爪「逆に聞きたいのですが、恐怖や不安はどこから来るのですか?」

来場者「えっと」

坂爪「はい」

来場者「多分、何かを失うことを恐れる気持ち思います」

坂爪「あー、なるほど!

来場者「はい

坂爪「それだと思います」

来場者「というと?」

坂爪「単純な話で、自分には何もないからだと思います。あまり意識をしたことはないのですが、自分には何もないので、何もないということは、何も失うことができないという状態でもあるので、失うことを恐れることがそもそも不可能である、ということなのかなと思いました」

5・合わないひとと会った時はどうするのですか?

別の来場者「質問があります」

司会「はい」

来場者「坂爪さんはいろいろなひとと会う生活をしていると思うのですが、初対面のひとに会う時とか、初対面のひとの家に泊まるときとか、ああ、このひとはちょっと苦手なタイプだなあと思うひとと出会ったときはどうするのですか?」

坂爪「帰ります」

来場者「帰るんですね」

坂爪「帰ります」

来場者「罪悪感とかはないですか」

坂爪「最初はいろいろ思うこともあったのですが、いまではあまり罪悪感を持つようなことは少なくなりました。乱暴なたとえ話かもしれませんが、デパートなどを歩いていて、暇で、なんとなくはいった店が自分の好みと違った時は、誰でも、そこに長居することなく、割と早い段階でその場所を離れると思います」

来場者「はい」

坂爪「だけど、自分の好みに合わなかったからといって、この店を憎むひとはいないと思います。この店はクソだと思う必要もなければ、この店なんてなくなればいいのに、などと思う必要もない。同じように、この店を好きになれない自分は間違っているのではないだろうか、みたいなことを考え始めるのもおかしな話で、ただ、自分には合わなかっただけなのだと思っています」

来場者「はい」

坂爪「まるで的外れなたとえ話かもしれませんが、別に、その店はその店のままで存在していればいいし、自分は自分のままで存在していればいいのではないだろうか、ということを思っています」

6・10年後になりたい姿はありますか?

別の来場者「質問があります」

司会「はい」

来場者「坂爪さんの話を聞いていると、なんと言いますかある種の潔さを感じるのですが、坂爪さんには『10年後にはこうなっていたい』と思うような姿ってあるのですか?」

坂爪「えっと…」

来場者「はい」

坂爪さ「ないです」

来場者「やりたいこともないんですよね」

坂爪「はい、やりたいこともないです

来場者「そうなんですね」

坂爪「逆に言うと『10年後にはそうなっていたいけれど、いまはそうなることができない』という状態を、わたしはイメージすることができないのです。変な言い方になりますが、現在にないものはこれからもないし、これから先にあるものは、既に現在にあるような気がしています

7・確信はどこから来るのですか?

別の来場者「坂爪さんの確信はどこから来るのですか?」

坂爪「確信ですか…確信していることなんてあるのかなあ

来場者「あるように見えます」

坂爪「別にないような気もするけれど…」

来場者「はい」

坂爪「何かを確信できているから生きているとは思わないのですが、もしも、自分にとって何か確信していることがあるとしたら、それは『生きている』ということです」

来場者「はあ」

坂爪「自分が確信できることは、はっきりと、いま、自分は生きているということです。自分にはそれくらいしかないし、生きているということも冷静に考えてみると良くわからないこと(わからないことばかり)なので、いまはこの『生きている』という不思議に物凄い興味があります

来場者「はあ」

坂爪「確信があるから生きているのではなくて、疑問があるから生きているのかもしれません」

8・誰かのためになどとは思わないのですか?

来場者「坂爪さんは『誰かのため』とかは考えないのですか?」

坂爪「はい

来場者「はい

坂爪「はい」

来場者「はい」

坂爪「ただ、物凄い大袈裟な表現になりますが、稀に『人類のため』に生きていると感じることはあります。これは『世界平和のため』とかそういうことでは全然なくて、世界平和とかは個人的には結構どうでもよくて、ただ『人類のため』に生きているのかもしれないと感じることはあります

9・なんですかそれは?

来場者「なんですかそれは」

坂爪「はっはっは(逃避)

来場者「……」

坂爪「これは聞き流してくれて結構なのですが、最近、自分以外の他人の生き様に触れたときに『このひとは自分の代わりに生きてくれている』のだと感じることが増えてきました。そして、自分自身は『そのひとの代わりに自分は自分の人生を生きている』のかもしれない、などと思うことがあります」

来場者「はあ」

坂爪「いま、自分の目の前にいるひとは、自分の代わりにそのひとの人生を生きてくれているのだと思うと、そのひとの話からもいつもとは違った感想を持つことができるし、良いとか悪いとかもなくて『ただそうである』ということがわかるし、日々はどちらに転んでも問題はなくて、別にいいのだと、何も恐れることはないのだという感覚になります」

10・最近は何を考えているのですか?

来場者「最近は何を考えているのですか?」

坂爪「『誰か』とは誰か?」

来場者「『誰か』とは誰か?」

坂爪「たとえば、物凄いさみしいときとか『誰でもいいからそばにいて』みたいな気持ちになることは、誰にでもあると思います。同時に、誰でもいいとか言っておきながら、全然『誰でもいい訳ではない』と思っている自分もいます」

来場者「はい」

坂爪「あと、たとえば自分は日本の音楽だと甲本ヒロトとか浅井健一とか田中和将とか吉井和哉とか小沢健二とかの歌詞が物凄い好きでGRAPEVINEの『光について』がやばい!!!みたいなことを誰でもいいから熱弁したくなるときがあるのですが、これも、誰でもいいとか言っておきながら『誰でもいい』訳ではないのです」

来場者「はい」

坂爪「(誰でもいいから)誰かに伝えたいとか言っておきながら『誰でもいい訳ではない』時の、この『誰か』とは誰か、みたいなものに興味があります。この人には話しても無駄だなとか、この人と過ごすくらいならひとりで居る方を選ぶよとか、乱暴な言い方をすれば『わかるやつだけわかればいい』的な選民思想につながることもあって、なんだかんだで考えています」

来場者「誰でもいい訳ではないですよね」

坂爪「そうなんです。(誰でもいいから)誰かといたいとか、誰かと話したいとか、誰かに伝えたいと思う時の、その『誰か』とは誰なんだろう???」

(人生は続く)

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【TOY-宮城】どうでもいいことには「どうでもいい」と言う。

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富山県を経由して新潟県に入り、明日からはいばやのメンバーで宮城県に向かう。9月4日(金)の夕刻からは、仙台市牛越橋のふもとで参加費無料の芋煮BBQ(?)があるので、我々に興味を持ってくださる方がいたらば、是非、一緒に食べたり話したりなんだりしましょう。


誤解を恐れずに言うと、イベントの企画者などは「人をたくさん集めたいので告知に協力してください!」的なことをすぐに言う。人は集まれば集まるほどに素晴らしいものになるみたいな雰囲気が世の中にはある。しかし、実際は「人間は集まれば集まるほどにくだらなくなる(薄っぺらくなる)」と個人的には思っている



久しぶりにいばやのMAYUとほっしーと三人で話をすることができた。彼らと話している時間は本当に楽しい。私は、私が好きだと思う人達と同じ時間を過ごしていたい。そこで話したことをベースに、最近思うことあれこれをまとめます。

1・「死ぬ」ことと「生きる」ことはイコール。

坂爪「ちょっと聞いてください!」

MAYU&ほっしー「はい」

坂爪「最近ね、出版社のひとからも『本を出しませんか?』的な連絡をもらうことが増えていて、編集のひとたちは『いままでに書いたブログ記事をまとめるだけでも、充分本になると思います』っていってくれるのね」

MAYU&ほっしー「はい」

坂爪「でね、俺もそう言ってもらえることが素直にうれしいし、家を持たない生活をはじめてからいまに至る経緯をまとめる良い機会なのかなとか思うんだけど、これがね、面白いくらいに筆が進まないの!!!」

MAYU&ほっしー「はい」

坂爪「まじで進まないの!!」

MAYU&ほっしー「はい」

坂爪「もともと過去に興味がないというかすぐに忘れてしまう(すぐにどうでもいいと思ってしまう)タイプの人間だっていうのもあるんだけど、なんかね、俺は家のない生活を続けて、たとえば『自分をオープンな存在にしている限り人間は死なない』みたいなことを確信するにいたったんだけど」

MAYU&ほっしー「はい」

坂爪「でね、その時は『本当にそうだ!(これは素晴らしい発見だ!)』って思っているんだけどね、これも過去の話で、いまその言葉を見ても『だから何?』って思っちゃうの」

MAYU&ほっしー「はい」

坂爪「自分をオープンにしている限り人間は死なない、はい、そうですか、みたいな。だから何、みたいな」

MAYU&ほっしー「はい」

坂爪「どういうことかというと『死ななければそれでいいのか』ということを思うのです。俺の中では死ぬことと生きることって比較的イコールなことなんだけど、死ななければいいのか、生きていればそれだけでいいのか、死なないために生きるということは、生きないために死ぬことと同じではないか、みたいなことを思うようになってしまって、まるで筆が進まなくなってしまったの」

2・坂爪圭吾は「死にたい」と思っている。

坂爪「でね、はっきりとわかったんだ。俺は『死にたい』って思っているっぽいんだよ。死ぬこととと生きることがイコールならば、生きていることを実感するためには、瞬間瞬間に死ぬことしかなくて、死なないために生きるということとは真逆で『瞬間瞬間に死ぬ』しかないのだということを、俺は強く思ったんだよ」

MAYU「なるほどね」

坂爪「うん」

ほっしー「わかります」

坂爪「死にたい」

MAYU「死のう!」

坂爪「死にたい」

ほっしー「死にましょう」

坂爪「生き延びようとするからダメなんだよ。うまくやろうとするんじゃなくて『よし、死のう』と思ってやるくらいが、きっと、ちょうどいいんだよね」

3・「瞬間瞬間に死ぬ」ということ。

坂爪「瞬間瞬間に死ぬしかない」

MAYU「あはは」

ほっしー「わかります」

坂爪「瞬間瞬間に死ぬしかないというか、ほんとうは、瞬間瞬間に死んでいるんだよ。それは信号が明滅するような感じで、何かが繋がっているようで、ほんとうは瞬間瞬間に俺らは死んでいて、そして、瞬間瞬間に生まれているのだよ」

MAYU「うん」

ほっしー「『昨日の自分は、今日の死体だ』のマインドですね」

坂爪「それそれ!」

4・史上最高の死に方。

ほっしー「ぼくは、なぜか昔から自分の中に『最高の死に方』みたいなイメージが強くあるのですが、それは『車に轢かれそうになっている男の子をギリギリのところで助けて、死ぬ』ということなんですが」

坂爪「そうなんだ!」

MAYU「いいねー!」

ほっしー「はい。このイメージが、なぜか昔から強くあるんです。それで、車に轢かれてから死ぬまでの間に、ちょっとだけ時間があるんです。その死ぬ直前のちょっとだけの時間で、ぼくは、男の子に向かって『僕の大切なあのひとに、ありがとうって伝えてくれ』とか言いながら死ぬんです」

坂爪「それはいいね」

MAYU「いいねー!」

ほっしー「『これで死ねる!』みたいな。これは美味しいぞ、と」

5・「これで死ねる」と思える瞬間のために生きる。

坂爪「『これで死ねる』って思える瞬間の、あれは、いいよね。すごくいいよね」

ほっしー「いいですよね」

MAYU「いいねー!」

ほっしー「最近、ぼくは中国のアイドルに釘付けになっていて、どうしてこれほどまでに惹かれるのだろうかと考えに考えた結果『いばやでもアイドルをやろう!』ということになったのですが、それで、これは来年から軌道に乗せていきたいと思っているのですが、多分、ぼくがいま抱いているビジョンを実現した瞬間に、ぼくは『これで死ねる』と思うと思うのです」

坂爪「おー!」

MAYU「おー!」

ほっしー「この前も、ミスチルのライブにいったときに、ライブの最後にミスチルのメンバー四人ががっちり肩を組んでいるのを見て『ああ!』ってなって、『俺がやりたかったことを先にやられている!』って思って、だから、もしもぼくがアイドルプロジェクトでやりたいと
思っていることを実現できた暁には『これで死ねる!』と思っている自分自身のイメージは、ばっちりあるんです」

坂爪「その感覚はいいなあ」

ほっしー「ハイタッチ感ですね」

坂爪「『これで死ねる』って思えるときの、あれ、あれはほんとうにいいよね」

6・坂爪の役割は、話の長い校長先生に「校長先生、話が長いです」と言うこと。

坂爪「全然話が変わるんだけどね、最近、また東京とかでイベントに呼ばれて出演する機会が増えているんだけどね、これがまたものすごい荒れるんだよ」

MAYU「荒れるんだー!」

ほっしー「福島の時はぼくも同席させていただいたのですが、あれも物凄いざわざわしました」


坂爪「そう!荒れるの!荒らしているのはお前だって言われることもあるんだけど、どうしてこんなに荒れるんだろうとか、俺ってなんなんだろうって考えた時に、なんとなく俺の役割がわかったような気がしたんだけどね」

MAYU「うん」

ほっしー「はい」

坂爪「それはね、話の長い校長先生に『校長先生、話が長いです』って実際に言っちゃうことだと思ったんだ。誰もそんなことは言わないし、そもそもで言う必要もないし、言わないほうが無難にことが進んでいくというのに、それを実際に言ってしまうことなんじゃないのかなって思ったんだ」

MAYU「あははー!」

ほっしー「王様の耳はロバの耳の、あれですね」

坂爪「うん」

ほっしー「わかります」

坂爪「別にね、そんなことはほんとうは言う必要なんてないんだよ。多分、それを言わないことが大人なんだと思うんだよ。だけど、俺は、どうしてなんだか言わずにはいられないざわざわ感に襲われてしまって、そして、それを実際に言ってしまうんだよ。だからきっと荒れてしまうんだよ」

ほっしー「なるほど」

坂爪「でね、でもね、実はね、何も言わない人も『あいつ本当に言いやがった!』って思うとは思うんだよ。『そのまま行きやがった!』って。別に自分は言わないし言う必要もないとは思っていたけれど、実際に誰かが言っちゃったら自分も一緒に興奮してきちゃうというか、さて、校長先生はどんな表情をするだろうかとか、こいつはどんな仕打ちにあるのだろうかとか、一緒になってこの空間を面白がってくれるようになるんだよ」

7・本音に宿るエンターテイメント性。

坂爪「でね、俺が『校長先生、話が長いです』って言った瞬間に、いままでつまらなかった空間に、瞬時にして緊張が走る訳ですよ」

MAYU「うん」

坂爪「乱暴に言い換えると、いままで最高につまらなかった空間が、いきなり最高に面白い空間に変わるのです。多分、本音にはエンタメ性が宿ると思うんだよ。みんなが思っていたけれど誰も言葉にしなかったことを、実際に言葉にしてしまうやつがあらわれることで、一気に空間が面白くなる、そんな力が『本音』にはあるような気がしたんだ」

MAYU「なるほどね」

ほっしー「ざわつきますね」

坂爪「だから荒れるのかな」

ほっしー「最近、荒れてますよね」

坂爪「荒れちゃう」

MAYU「荒れちゃうんだ」

坂爪「荒れちゃう」

8・最大の役割は「どうでもいいことには、どうでもいいと言う」こと。

坂爪「でね、俺ね、さっき歩きながらなんとなく思ったんだけどね、もしも俺に最大の役割があるとしたら、それは『どうでもいいことをどうでもいいと言うこと』なんじゃないのかなって思ったんだ」

MAYU「うん」

坂爪「人に嫌われるかもしれないとか、誰かに笑われるかもしれないとか、安定した生活を送れないかもしれないとか、自分の気持ちを理解してもらえないとか、自分には力がないとか、自分には金がないとか、自分には自信や技術や勇気が足りないとか、そんなことはどういいことなんだって」

MAYU「うん」

坂爪「俺にはね、多くの人が『どうでもいいことを、どうでもよくないと叫んでいる』ようにしか見えないことがあるんだ。たとえば、そんなものはなくても余裕で生きていけるはずなのに、多くの人達の不安を煽ってものを売ろうとする企業とか、このままでは病気になるとか、このままでは路頭に迷うとか、このままでは時代遅れになるとか、そういう形で不安を煽って『どうでもいいことを、どうでもよくないこととして扱っている』場面を目にすることがたくさんあるような気がしているんだ」

MAYU「あー、なるほどね!」

坂爪「うん、あとね、俺は日本の政治とか政治家を見ても、本当に何も思わないんだ。何も興味が湧かないし、怒りを覚えることもないし、どうでもいいと思ってしまうんだ。だから、あれだけ『あべ死ね』とか『日本の政治は腐っている』って怒っている人を見ると、物凄いエネルギーだなあって感心をしてしまうんだ」

MAYU「あれはすごいエネルギーだよね。あのエネルギーを別のところに使ったら、何かすごいことができそうだよね」

坂爪「うん。俺もそう思う。とにかく、俺はほとんどのことを『どうでもいいこと』だと思っていて、そんな俺でも『これだけはどうでもよくないな』って思えることがひとつかふたつかみっつくらいはあるんだけど、それは『人を愛するということ』とか『いまをしっかりと生きること』とか、そういう単純な言葉でしか表現することができないんだけど」

MAYU「うん」

坂爪「それ以外のことは、ほんとうにどうでもいいんだ。全然重要なことだとは思えないんだ。どうでもいいと思ってしまう自分に罪悪感を持つこともあったけれど、でも、やっぱり無理で、どうしても興味を持つことができないんだよ」

9・命は「守る」ものではなく「使う」もの。

坂爪「だからね、最近は『生きるとは何か?』とか『愛するとか何か?』とか、俺は基本がまるでわかっていないからそういうことばかりを考えてしまっているんだけど、だから、命についてもすごい考えることが多いんだけど」

ほっしー「はい」

坂爪「なんかね、感覚として、命は『守る』ものではなくて『使う』ものなんだな、ということはすごい感じているの」

ほっしー「はい」

坂爪「死なないために生きていてもしょうがないという話はさっきしたけれど、生き方と死に方が同じであるということならば、問われているのは『命の守り方』ではなくて『命の使い方』なのかなって」

ほっしー「はい」

坂爪「これは、別に『命を粗末にしましょう』って言いたいわけではなくて、真逆で、命も金も知識も何でも、持っているだけでは何の意味も価値もなくて、使ってこそ『本領』が発揮されるものだと思うんだよ。溜め込もうとするからダメで、守ろうとするから弱くなるんだよ」

ほっしー「わかります」

坂爪「だからね」

ほっしー「はい」

坂爪「結局振り出しに戻るんだけど」

ほっしー「はい」

坂爪「瞬間瞬間に死ぬしかないんだよ」

10・「人を愛すること」と「いまをしっかりと生きる」ということ。

坂爪「これ以上に大切なことはあるだろうか」

ほっしー「そうですね」

MAYU「そうだね」

坂爪「あるかもしれないけど」

ほっしー「はい」

MAYU「うん」

坂爪「なかなか言葉にできない」

MAYU「うん」

坂爪「でも、そんなにないとも思うんだよね。少なくとも、人に嫌われるとか、誰かに笑われるとか、安定した生活を送るとか、自分には力がないということを嘆くとか、そういうことなんかどうでもいいことだとは思える程度には、大切なことであるような気がしているんだ」

MAYU「なるほどね」

坂爪「だから、とりあえずいまの俺はいまの俺の役割を『どうでもいいことにどうでもいいと言う』ことなのかなって思ったんだ。俺は、多分、いろいろなことをどうでもいいと思っているんだ。そして、いろいろなことがどうでもいいと思っている中で、これだけは『どうでもよくない』と思えるもの、たとえばそれは『人を愛すること』とか『いまをしっかりと生きること』とか、言葉にするとその程度のものになってしまうのだけれど、これがどういうことなのかということを、しっかりと掴んでいきたいなあって思ったんだ」

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
TEL:07055527106 or 08037252314
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【SDJ-松島】瞬発力のある余白力のある奴が最強。ー 「奇跡は余白に舞い込む」のか?

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宮城県の松島を経由して、仙台市青葉区ドトールに入った。家を持たない生活をはじめてからおよそ一年半が経つが、いままでは一度も風邪をひいたことがなかった(家がある時はひと月に一度はぶっ倒れていた弱者だった)のだけれど、久しぶりに体調を崩して「俺はまだ風邪をひけるのか!」と、ちょっとだけ感動をしている。


最近、いばやの中では『余白がやばい』という話題で盛り上がっている。奇跡はいつ、どのような形で起きるかわからない。ポイントは『奇跡が起きた時、自分にそれを受け取る準備が出来ているかどうか』ということであり、その点についていばやのMAYUととおるくんと話した内容をまとめます。


1・奇跡の準備は出来ているか?


MAYU「三日前、けーちゃん(坂爪圭吾)とほっしーで、国際免許を取りにいったでしょ?」

坂爪「うん。というのも、非常にありがたいことに『オーストラリアのゴールドコーストからエアーズロックまでの片道3000キロをキャンピングカーで一緒に往復しませんか?』というオファーをいただいて、別に国際免許をとるように頼まれた訳ではないのだけれど、絶対に持っていた方がいいと思ってとってきたんだ」

MAYU「オーストラリアに呼んでくれるひとがいるというだけでも充分すごい話なんだけど、二人が国際免許を取りにいっている間、私ととおるくんは待機をしていた訳なんだけど」

坂爪「うん」

MAYU「とおるくんがね、ほんとうは僕も国際免許を取りたいんだけど、でも、いまは手元にパスポートがないからとれないんですよーって悔しがっていたのね」

坂爪「うん」

MAYU「でね、国際免許の有効期限って一年間でしょ?だから、とおるくんに『海外にいくことが決まってから取った方がいいんじゃない?』って言ったのね」

坂爪「うん」

MAYU「そしたらね、とおるくんが『でも、今日国際免許をとらなかったら、明日、国際免許が必要なオファーが届いてきたときに、応えることができないじゃないですか』っていうの」

坂爪「うん」

MAYU「でね、そしたらね、その次の日に『アメリカで車を運転してくれるひとが必要なんだけど、MAYUちゃん、運転できる!?』みたいな連絡が来たの!!!!!」

2・飛翔する準備はできている。


坂爪「すごー!」

MAYU「というのも、アメリカのネバダ州で開催されるバーニングマンっていうイベントに、私の友達が二人で一緒にいく予定だったのね」

坂爪「うん」

MAYU「でね、サンフランシスコから車を運転して開催場所まで行く予定だったらしいんだけど、その運転をするはずだったひとが、突然いけなくなってしまって、急遽『今夜から一緒にアメリカにいってくれるひとを募集します!』みたいなことになったらしいのね」

坂爪「なるほど」

MAYU「うん。それでわたしに連絡がきたの。でね、予定している期間は一週間で、わたしは暇だから、今日から一週間だったらいけるな、と。これはバーニングマンフラグが立っているぞ、と」

坂爪「これはビンビンだね」

MAYU「だけどね、私のパスポートは横浜に置いてあるから、まずはそこまで取りにいかなくちゃいけないでしょ。それで、国際免許もまだとっていないから、これは最悪日本の免許証でもどうにかなるかもしれないとは話していたんだけど、でも、国際免許があれば最強なわけで」

坂爪「うん」

MAYU「結論から言うと、今回はいかないことになったんだけど、なんていうかね、この一連の出来事に触れて、神がいばやに『余白力を磨いておけよ』って言っているようにしか思えなかったんだ」

3・瞬発力のある余白力のある奴が最強。


MAYU「普通、今日からいきなり一週間時間をつくれって言われても、無理じゃん。だけど、わたしは暇だから、いけるの。そこでいきなりいける自分最高だなとは思ったんだけど」

坂爪「うん」

MAYU「パスポートも国際免許もいつでも持ち歩いて、いつでも行けます!感を出すのっていいね〜って」

坂爪「ものすごいタイミングだね」

MAYU「だよね」

坂爪「だいいち、いまもこうしてみんなで一緒に宮城県にいる訳になるけれど、『みんなで宮城に来ませんか?』ってオファーをもらった時に、こうして平日の2〜3日を全員が空けることができた、というのも凄い(暇だ)よね」

MAYU「余白力だね」

坂爪「余白は我々のテーマだね」

MAYU「瞬発力のある余白力のある奴が最強」

4・いばやは『ある』より『ない』ことを推す。

坂爪「普通、会社とかが何かを押し出す時って、自分たちが持っているものを押し出すじゃない。私たちはITに強いですとか、高級な材料を扱っていますとか、専門職が大量にいますとか、自分達が持っているものを押し出すでしょ」

MAYU「うん」

坂爪「でもさ、いばやが面白いのは『いかにいばやがガラ空きであるか』ということを押し出していることにあるのかなとか思うんだ。『ある』ではなくて『ない』を押し出しているところが、自分で言うのもあれだけど、すごい面白いなあって思うんだ」

MAYU「余白を打ち出す会社とか、多分、まだないよね」

坂爪「ないと思う。だって、バカだもん」

MAYU「いばやは余白業界のパイオニアになれるね」

坂爪「余白業界はまだ全然育っていないもんね」

MAYU「余白力をいかにつけるか、みたいなことは面白くなりそうだね」

とおるくん「あのー」

坂爪&MAYU「はい」

とおるくん「ちょっといいですか?」

5・とおるくんが神様になった話。

とおるくん「僕は去年からヒッチハイクにはまっていて、おとといもヒッチハイクで岐阜から新潟に戻って来たのですが、岐阜でヒッチハイクをしているときに雨がすごい降っていたんですね」

坂爪「うん」

とおるくん「で、僕も『あー』みたいな気持ちになっていたのですが、若い女の子がふたりいるのを見つけて、声をかけてみたいんです」

坂爪「うん」

とおるくん「そしたら、声をかけた瞬間に女の子たちが『えっ!?』ってなったのが瞬間的に見て取れて、おお、これは何かあるぞと思ったので僕はハードルを思い切りガン!!!と下げて、一秒だけでもいいから乗せてくださいという感じでヒッチハイクのお願いをしてみたのです」

坂爪「うん」

とおるくん「そしたら、なんと、その女の子たちは二人ともペーパードライバーだったみたいで、雨も強いから『誰か運転してくれる男の子と一緒に来たらよかったね』みたいな話をしていたらしくて、そこに現れたのが僕で、女の子たちのなかでは『まじ!神!』みたいなことになっていたみたいで」

坂爪「おおー!」

とおるくん「その瞬間、僕が神様になったんです」

6・需要と供給が逆転(?)する。

とおるくん「それで、僕が代わりに運転をすることになって、女の子ふたりが座席にいる形になって、僕が運転席から女の子ふたりに『どこから来たの?』とか聞いてみたりして、まるで、どっちがヒッチハイクをしているんだかわからない状態になって」

坂爪「それは面白いね」

とおるくん「そうなんです。それで、もしかしたら、僕みたいな『運転してくれるひと』を求めているひとたちというのは、結構な人数いるんじゃないのかなあって思ったんです」

MAYU「それはいるだろうね。女の子とかは、特にそうだと思う」

とおるくん「だから、僕が『暇です!運転ができます!』って言ったら、それを使ってくれるひとはたくさんいるんじゃないのかなって思って」

MAYU「余白力だね」

坂爪「余白力だ」

MAYU「あ、それと、その女の子たちの次に乗った人の話も聞かせてよ。あれ、すごい面白かったんだ、あれ、ヨット乗りのおじちゃんの話」

7・今日も元気だ「ヨットでハワイ」

とおるくん「女の子たちと別れて、次に乗ったひとが富裕層のおじちゃんだったのですが、その人がヨットに乗るのが趣味のひとみたいで」

坂爪「うん」

とおるくん「しかも、普通のヨットじゃなくて結構いいヨットみたいで、それでレースに出たり、普通にそこで宿泊したりもできるやつみたいなのですが」

坂爪「うん」

とおるくん「ヨットが大きいから、レースに出るときは陸路を使えないから海路になるんですね。それが結構な移動時間だから、誰か一緒に話してくれるひとがいてくれたらいいなあってすごい思うらしくて、時には話し相手を雇うこともあるらしいのです」

坂爪「おおー!」

とおるくん「ときには日本からハワイまでヨットでいくこともあって、これはヨット界では特別なことではなくて当たり前の話らしいのですが、そういう時に話し相手になってくれるひとがいたらいいと思っているひとたちは、間違いなくたくさんいるよって話を聞かせてくれたのです」

坂爪「ヨットでハワイ…」

MAYU「すごいよねー!」

坂爪「すごい世界があるんだね」

8・直感よりも反射神経。

とおるくん「それで、僕も『僕も一緒に行きたいです!』って言ったら、おじちゃんも『おう、それならヨットの雑誌とかに載ってる人の名前をFacebookとかで検索して、一緒に乗せてくださいって連絡をすればいいよ』とか教えてくれて」

坂爪「具体的だな!」

MAYU「すごいねー!」

坂爪「今日から出来るじゃん!」

とおるくん「はい。それで、僕もおじちゃんに『連絡先を教えてください!』ってお願いをしたら、おじちゃんもオープンな人だから電話番号を教えてくれたんです」

坂爪「とおるくんの行動力はほんとうにすごいね」

MAYU「余白力と瞬発力だね」

坂爪「『センスのある損』にも通じる何かがありそうだね」


9・二回誘って、二回断られたら、その人には永遠に声をかけない。

とおるくん「もともと、ヨット業界では『あそこに行くぞ!』みたいな合図が出たら、日本全国から車をかっ飛ばしてどこかに集合して、そこからみんなで行くということは当たり前に行われているみたいなのですが」

坂爪「うん」

とおるくん「『二回誘って、二回断られたら、その人には永遠に声をかけない』っているルールみたいなものがあるらしいんです」

坂爪「おお…」

MAYU「それはすごいいいよね」

坂爪「反射神経が試されているというか、一週間考えさせてくださいとか、そういう生ぬるい態度が通用しない世界なんだね」

とおるくん「そうなんです。言い換えるならば『余白力が試されている』というか、自分は常に要望に耐えうる余白を持つことができているか、みたいなものが物凄い試されているなあと思ったんです」

坂爪「なんかさ、余白力とか凄い大事だなあは思うんだけど、それがあれば誰でもいい訳ではないということも思うの。最近は『誰でもいい訳ではない』というそのことをすごい考えていて、自分を自分たらしめているものとか、その人をその人たらしめているものとか、そういうことに謎に関心があるんだ」


10・「奇跡は余白に舞い込む」のか?

MAYU「余白についてはまじで奥が深いね」

坂爪「まじで興味深い『あれ』だね」

とおるくん「そうなんです」

坂爪「俺は今月からありがたいことにロシアとかスペインとかオーストラリアとか台湾に行けることになったんだけど、これは、とりもなおさず俺が暇だったから(余白に満ち溢れていたから)で」

MAYU「いばやは余白業界のパイオニアになるべく、これからも余白力を磨いていく必要が多いにありそうだね」

坂爪「何だかよくわからないけれど、面白くなりそうな臭いはぷんぷんするよね」

とおるくん「いままでは『ある』ひとが強かったというか、でも、これから『ある』ひとたちが『ありすぎてつらい』みたいになったときに、いよいよ『ない』ひとの存在がウルトラ役に立つのかもしれませんね」

MAYU「いばやは余白推しだね」

坂爪「余白は本当に面白いなあ」

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【SDJ-伊豆】「どう生きるか」よりも「生きている」とはどういうことか。(追記含む)

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宮城県広瀬川沿いで開催された芋煮会を途中で抜け出す形になり、静岡県の伊豆に向かっている。芋煮会には、驚いたことに30名程の人が駆けつけてくれた。なかには東京や岩手や山形など、この日のために県外から足を運んでくれたひともいた。


私がひとりで芋煮を食べていると、ひとりの男性が「もしよかったら話しませんか」と声をかけてくれた。その後、すぐに女性の二人組が「私たちも混ざっていいですか」と我々にジョインし、徐々に人が集まり、最終的には八人くらいの小さな人の輪ができた。そこで話したことなどをまとめます。

1・「どう生きるか」よりも「生きているとはどういうことか」

坂爪「これは軽い悩み相談みたいになるのですが、最近の私の興味は『どう生きるか』よりも『生きているとはそもそもでどういうことなのかか』ということなのですが」

参加者の皆様「はい」

坂爪「最近は哲学者(?)の池田晶子さんの著作を読み耽っておりまして、その影響を多大に受けている訳になるのですが、『どう生きるか』ということが最近では結構どうでもよくなっていて、そんなことよりも『生きているとはそもそもでどういうことか』がわからなければ、どう生きるかなんてことは語れないのではないだろうか、と」

参加者の皆様「はい」

坂爪「それで、私にとって『生きているとはどういうことか』ということを最近では頻繁に考えているのですが、考えてもまったくわからないのです。なので、もしよかったら、皆様にとって『生きているとはどういうことか』というのを教えてもらえたら嬉しいなあと思って」

2・生きているとは「呼吸をしている」こと。

坂爪「同じような質問を別の場所でした時に、その人は20代の女性だったのですが、彼女は『呼吸をしていること』だと答えてくれました」

参加者の皆様「なるほど」

坂爪「うん。わたしも『それはそうだなあ』と思いました。呼吸は自分でコントロールすることもできるし、無意識の内に勝手にやっている部分もあるし、丹田呼吸とかにも詳しいひとで、そもそもで呼吸をしている状態ってすごい面白いですよねという話で盛り上がったのですが、彼女にとって、生きているということは『呼吸をしている』ということなのだ、と話してくれました」

参加者の皆様「確かに、生きている限り呼吸をしていますもんね」

坂爪「そうですよね、だから私も『そうだなあ(ほんとうにそうだなあ)』と思いました。同じ質問なのに、答えるひとによって回答が全然異なるのが面白くて、それ以来、私は隙あらばこの質問を投げかけるちょっと怪しい存在に最近ではなっているのです」

3・生きているとは「無心になる」こと。

坂爪「また別の場所では、大学生の男の子に同じ質問をしてみたのですが、彼曰く、生きているなあと感じる瞬間は『無心になること』だと答えてくれました」

参加者の皆様「無心ですか」

坂爪「この男の子は、サッカーやマラソンが大好きな男の子なのですが、走っている瞬間には無心になることができるそうで、その瞬間がたまらなく良いのだそうです。そして、そういう瞬間に『自分は生きているなあ』と感じるのだそうです」

参加者の皆様「なるほど」

坂爪「無心になれる瞬間のよろこびはものすごいわかるのですが、それでは、無心になっていない状態は『生きていないのか』ということになるのですが、そういう訳でもなく、生きているという点においては同じなのではないだろうか、なんて風に私は思ってしまうタイプの人間なので、またしても別の場所で同じ質問を投げかける日々は続きました」

4・生きているということは「夢を見ている」こと。

坂爪「また別の場所では、伝説のマイフレンド・みっつさんに同じ質問をしたのですが、みっつさんは『夢を見ていること』だと話してくれました」


参加者の皆様「おー!」

坂爪「これはまた面白い見解だな!と思って軽い感動を覚えていたのですが、私がみっつの話を聞くよりも先に自分の話をしてしまったために、みっつがどのような意味を込めてこのようなことを言ったのか、ということは謎のままです」

参加者の皆様「はい」

坂爪「そこで、気持ち悪いかもしれませんが、私はいまだに『生きているとはどういうことやねん!』という状態に置かれておりまして、隙あらば千と千尋の神隠しのメインテーマであるいつも何度でもの『生きている不思議〜🎵死んでいく不思議〜🎵』の部分だけをひたすら口ずさんでしまう日々を過ごしているために、もしよかったら(あなたにとっての『生きているとはどういうことか』を)教えていただけたら嬉しいのです」

5・生きているとは「繋いでいく」こと。

Aさん(女性)「あ、いいですか」

坂爪「はい」

Aさん「私にとっては、生きているということは『繋いでいくこと』なのかなって思いました」

坂爪「おー!繋いでいくこと!」

Aさん「はい。何かで聞いたのですが、生まれてくる前の卵子とか精子の状態の時から、生命には次に繋げていく機能と言うか、そういうものが既にインストールされているらしいということを聞いたのですが」

坂爪「はい」

Aさん「なんか、わかるなあ、と言うか。私の中にも『自分を何かに繋げていきたい』というような思いが芽生えることもあって、だから、坂爪さんの話を聞きながら、自分にとっての生きているということは『繋げていくこと』なんじゃないのかなって思いました」

6・生きているとは「感じることができる」こと。

別の女性(Bさん)「私にとっては、生きているっていうのは『感じる』ことなのかなって思いました」

坂爪「おー!感じること!」

Bさん「はい。嬉しいとか楽しいとかだけじゃなくて、悲しいとか苦しいとか、そういうものも全部ひっくるめて『感じる』ことが、生きているということなのかなって」

坂爪「それはすごいわかります」

Bさん「ありがとうございます」

坂爪「私も、いままではその感覚と非常に近いものを覚えていて、生きているのはいまだけで、喜怒哀楽を感じることができるのはいまだけなのだから、それならば『いまをしっかりと生きよう(様々な感情を経験しよう)』という風に思っていたのですが」

Bさん「はい」

坂爪「実は、いま、そこのところがちょっとわからなくなっているのです」

7・生きているとは「いま、ある」ということ。

別の女性(Cさん)「私にとっては、生きているということは『いま、ある』ということなのかなと思っています」

坂爪「おー!いま、あるということ!」

Cさん「はい。前に坂爪さんのブログで『死にたいとか言うと死にたいとか言うなと言われてしまうけれど、本当は《死にたいと思うこの気持ちについて、誰かと話がしたい》だけなんじゃないのか』みたいなことが書いてあって、それ、すごいわかるなあと思ったのですが」


坂爪「ありがとうございます」

Cさん「なんだろう、私も、昔から結構『死にたい』とか思うことはあったのですが、こういう感覚を話せるひとというのはあまり多くなくて、それに苦しんだりしたこともあったのですが」

坂爪「はい」

Cさん「生きているなかで、常に何かを感じている訳でもないと思うんです。だけど、何も感じていないからといって『生きていない』という訳でもなくて、ただ、自分がいまここにあるというだけで、それは生きていると言えるんじゃないのかなって思いました」

8・生きているとは「死んでいない」ということ。

坂爪「これは別に答えがあるとかそういう種類の話とかではないと思うし、別に答えを出したくて話しているというよりも『話しているという、まさにそのことが楽しい』から話しているだけなのですが、いろいろな考えを聞けて面白いです」

参加者の皆様「はい」

坂爪「私も、いままでは『生きているとは感じることができることだ』という風に思い込んでいて、それからは、どう生きるかということだけを考えるようになってしまっておりまして」

参加者の皆様「はい」

坂爪「ただ、ここで一旦冷静になって考えて見ると、生きているとは感じることができるということならば、生きていないということは感じることができないということで、生きていないということは死んでいるということであり、ここで『死んでいるということは感じることができない状態である』という前提に自分が立っているなあということに気がついたのですが」

参加者の皆様「はい」

坂爪「でも、冷静になって考えてみると、当たり前のことですが自分はまだ死んだことがないので、死んだらどうなるのかということを何も知らないな、と。死んだら感じることができないというのもほんとうかどうかはわからないし、もしかしたら死んだ直後に死ぬほど多感になるかもしれないし、感覚は存在し続けるかもしれないし、あるいは、見事に消えてなくなるかもしれない。そこんところを、自分は何もわからないし、わかりようがないではないか、ということがわかったのです」

9・生きているとは「誰かの心の中で生きている」ということ。

坂爪「同じような話を別の場所でしていた時に、そこで話していたひとが『ぼくは、自分が死んでも誰かの心の中で自分が生きていれば、それは生きていることになると思うんです』と話してくれたのですが」

参加者の皆様「はい」

坂爪「それはわかるなあ、と。わかるというか、そういう状態ってすごいいいよね、みたいなことを思いました」

参加者の皆様「はい」

坂爪「誰かが、ふとした瞬間に『あのひとは元気にしているかな』みたいな感じで、自分のことを思い出してくれる。この瞬間にはある種のあたたかみを覚えることができるし、たとえ自分がいなくなったとしても、自分を思い出すことでその人自身の内側から『生きるエネルギー』のようなものが湧き出してくれるものであれば、それは、自分は『善い人生』を生きたのではないだろうか、ということは私もすごい思うのですが」

参加者の皆様「はい」

坂爪「それでは、自分のことを思い出すひとがいなくなったら、自分は死んでしまうのだろうか。自分のことを知っているひとが誰もいなくなった瞬間に、自分の生命と呼ばれるようなものも、なくなってしまうのか。それとも、誰も自分のことなど覚えていないとしても、自分の何たるかは、引き続き残り続けるものなのだろうか。それとも、そもそもで自分が寿命を迎えた瞬間に、ひとのこころの中で生き続けるということなども別になくて、自分は死んでしまっているのだろうか、などなど」

参加者の皆様「はい」

坂爪「別に人生に絶望しているとか、虚無感に襲われているとかでは全然なくて、真逆で、生きている不思議とか死んでいく不思議がいまは物凄く面白いものに思えていて、ああでもない、こうでもない、などとひとりで思考を巡らせているのです」

10・生きているとは「生きていると思っている」こと。

坂爪「私の友達で、今日もこの芋煮会で司会を勤めているチームゼロのとおるくんという男性がいるのですが」

参加者の皆様「この前のブログ記事に登場した、ヒッチハイクのひとですよね」


坂爪「はい。そうです。私はとおるくんの感性というか直感のようなものを非常に尊敬しているのですが、とおるくんにも同じ質問をしてみたのです」

参加者の皆様「はい」

坂爪「そしたら、とおるくんは『生きていると思っていること』だと思いますって答えてくれまして、うまく言えないのですが、その言葉に(大袈裟な表現ではありますが)真実の響きを感じたといいますか、なんといいますか」

参加者の皆様「なるほど」

坂爪「真実の響きを感じただけで、いまだに生きているということのなんたるかは謎のベールに包まれているのですが、いま、こうしてここで皆様と話ができているのは『生きているから』に他ならず、なんといいますか、いままで当たり前のこととされてきてあまり深く考えられることのなかった『生きているということ』は、実は、ものすごい面白いことなんじゃないだろうか、みたいなことを感じています」

参加者の皆様「いろいろな考えが聞けるのは面白いですね」

坂爪「ほんとうにそう思います」

参加者の皆様「坂爪さんのブログを読んでいると『このひとは生きているなあ』ということをすごい感じるのですが、ご本人としては、あまりそういう感覚はないのですか?」

坂爪「うーん、どうなんだろう。いままでは『感動を味わうために生きている』というような考え方をしていたのですが、これは、言い換えると『いまはまだ感動をしていない』ということになってしまうと思います」

参加者の皆様「はい」

坂爪「うまく言語化することができないのですが、いままでは『感動を味わうために生きている(いまの自分は感動の外側にいる)』のだとしたら、いまは『感動のど真ん中を生きている(感動の内側にいる)』みたいに感じるようになりました。これは自分はすごいとかそういうことではなくて、真逆で、生きているという不思議について思いを馳せれば、実は誰もが感動のど真ん中を生きているということになるのではないだろうか、みたいなことを感じています」

参加者の皆様「すごい領域ですね」

坂爪「いえ、全然すごいことだとは思いません。いままで、私は『常識を破壊する』みたいな言葉を好んで使用したり、事実、そのように外部の方々からも取り上げられることが多かったのですが、いまでは『常識は破壊するものではなくて発見するものである』ということを思うようになりました」

参加者の皆様「破壊ではなく発見ですか」

坂爪「これはまたうまい言葉を見つけてからしっかり話せたらと思うのですが、たとえば生きているというをひとつとってみても、当たり前過ぎて誰も話題にしないと思います。しかし、よくよく考えてみると、この『当たり前こそ実際はやばい』ということを痛感する瞬間があって、ああ、自分が当たり前だと思っていたこの世界は、実は、半端なく半端ないんだなあみたいな、ある種の感動に包まれたりするのです」

参加者の皆様「なるほど」

坂爪「常識は破壊するものではなくて発見するものである、というのが最近の発見です。これは池田晶子さんの影響も多大に受けてしまっているために、これからの私がどうなっていくのかとか、見守っていただけたら幸いです。そして、またこういう話を皆様と一緒にできたらいいなあと思います。では!!」

人生は続く。

【追記】このブログ記事を読んでくれた読者の方から「これだよ、これなんだよ」と思わせてくれる一通のメールが届いた。あまりにも素晴らしい内容を含んでいたので、こちらでご紹介させていただきます。

今日のブログの記事、すごく感動しました!!
それだけお伝えしたくてメールします。

最近の記事に、すごいな、すごいな~と思いながら拝読してましたが、
今日は特にずばーんときました!!

まあ私が坂爪さんにメールする時って、気分よくウチで酔っぱらってる時なので、迷惑極まりないメールなのですが(苦笑)。
いつもは素面でブログ拝読して感動してます!

私は生きていて本当に辛かった時期をなんとか乗り越えた後、
自分は、海や空が美しいのと同じように、美しいのだ、という言葉を、自分の中に、杭のように打ち立てました。

自分という存在が、頼りなく流されそうな時、その言葉は拠り所になってくれました。

私達は美しいのです。
空や海のように。

生きていることに意味を求める必要なんて、ないような気がします。
空や海に意味を求める必要がないように。

酔わないとこんな恥ずかしいことは言えませんね。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

よい旅を!!

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
TEL:07055527106 or 08037252314
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【FSZ-表参道】プロの定義は「飯が食えていること」なんかではなく、食えなくとも、それで生きると決めた人間の覚悟だ。

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静岡県の伊豆を経由して、東京の表参道で開催されたイベントに出演し、上越新幹線に乗って新潟市内に戻った。最近は、覚悟について考えさせられている。そして、それに伴った「前提の違い」について考えさせられる機会が多い。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・「前提の違い」ー 生活のために生きるのか、生命のために生きるのか。


表参道で開催されたイベントに出演した際、酔っ払ったおじさんが「坂爪さんはどうしてそんなにイケメンなんですか〜!?」と比較的大きな声で叫んできた。正直に言えば、私は、下劣な人間だなと思った。そして「腹を括っているからだと思います」と答えた。少なくとも、お前よりはずっと腹を括って生きているからだと思いますよ、と、内心では密かに思っていた。

多分、人間の生き方には二種類ある。生活のために生きるのか。生命のために生きるのか。食べるために生きるのか。生きるために食べるのか。私は、前者の生き方には興味が湧かない。その人が何に自分の命を燃やしているのか、など、そういうことに強い興味を覚える。

2・真価が問われているのは「使い方」になる。


金や知識や命の守り方は「生活のため」の要素が強い。金や知識や命の使い方は「生命のため」の要素を帯びる。多分、命は守るためにあるのではなく、使うためにある。あらゆるものは、その守り方や溜め込み方ではなく「使い方」に真価が問われているのだと思っている。

「ただ生きる」ことと「善く生きる」ことは別物だ。ただ生きる、ただ年齢を重ねることには、何の努力も意思も高貴な精神も必要ない。年齢を重ねているだけでは、その人を尊敬する理由にはならない。尊敬するに値するのは「善い年を重ねた」人間であり、善く生きるためには、何かしらの意思や思想や高貴な精神が必要になる。

3・「自分のままでは通用しない」という嘘。


多分、何処かしらのタイミングで、それは自分が好意を寄せていた相手から嫌われたり裏切られてしまった経験や、周囲の人間の期待に応えることができない自分を見た時に、ひとは「自分のままでは通用しない」というような感覚を抱く。そして、自分以外の何者かの要素を、自分の外側や内側に取り入れようとする。

しかし、どれだけ豊富な知識や財産を持っていたとしても、すごいのは知識や財産であって、その人自身ではない。どれだけ豊富な人脈を持っていたとしても、すごいのは自分以外の他人であって、その人自身にはならない。「自分のままでは通用しない」という思いから取り入れたすべてのものは、自分を、自分自身から遠く引き離していく。その人がその人であることの必然性がなくなり、その人自身の実態が消える。

4・自分の価値は自分で決める。


いま、あらゆるものの価値が「金」に代表される外部の価値基準で測られている。自分の生活のために有利になる話は求められるが、金になるかどうかもわからないことは「非生産的」な話として、避けられがちになる。この傾向は、私がイベントなどで尋ねられる多くの質問からも垣間見ることができる。

「どうすれば金がなくても生きていけるのですか」とか「どうすればアクセス数を集める発信をすることができるのですか」とか「どうすれば自分に自信を持つことができるのですか」とか「どうすれば自由になることができるのですか」とか「どうすれば坂爪さんのように、周囲に人が集まってくるような人間になれるのですか」とか。

自分の価値は自分が決める。当たり前のことだ。周囲の人間がどれだけ良いと言おうとも、自分自身がそれを「善い」と思えなければ、抱える虚しさが消えることはない。誰かのせいで不幸になる人間はいない。自分を幸福にしている(不幸にしている)当事者は、自分自身だ。

5・損得勘定を超える。


生活のために生きるのか。生命のために生きるのか。食べるために生きるのか。生きるために食べるのか。自分がこれから進む道を選ぶとき、有利か不利か、損か得かで選ぶのか。それとも、それ以外の「何か重要な自分自身の価値観」をもとに選ぶのか。

このひととなら幸せになれるかもしれないという結び付きよりも、このひととなら別に不幸になっても構わないと思える結び付きの方が、多分、強い。自分の幸せなんてどうでもいい(別に不幸になっても構わない)と思っているその時に、もしかしたら、その人は幸せのど真ん中にいるのかもしれない。

6・「他人の批判」よりも「自分の内省」が先。


批判の9割は嫉妬の場合が多い。誰かの中に「悪」を見出す時、それは、自分自身の中にある悪を相手に投影しているだけに過ぎない。そういう場合が頻繁にある。自分の悪を棚に上げて、他人の悪をああだこうだというのは「在り方」としてダサい。

他人の生き方に口を出している暇があるのならば、自分の人生に集中する。誰かが不幸になったからといって、自分が幸福になれる訳ではない。否、他人の不幸を望んでいる時点で「精神的に卑劣」な存在に成り下がる。自分で自分の価値を下げる必要はない。他人の批判よりも、自分の内省が先だ。

7・自分の嫌いなひとではなく、自分の好きなひとのために使ってこその命だ。


自分の理想は「今日も生きた」と思って毎日眠りにつくことであり、最後の瞬間に「俺は生きた」と思いながら、こどもが眠るように、自分の人生に幕を下ろすことだ。私は、自分が嫌いなひとといる時の自分よりも、自分が好きなひとといる時の自分が好きだ。そして、自分が好きなヒト・モノ・コトの中に自分を深く没入させることができた時に「今日も生きた」と思うことができる。

8・何かを憎んだり、何かを恐れたり、自分が嫌いなものにエネルギーを注いでいる場合ではない。


自分の嫌いなひとではなく、自分の好きなひとのために使ってこその命だ。

9・これだけは「どうでもよくない」と思えることを、残された日々の中でしっかりと掴むこと。


自分にとって大事なことを知ることと同じくらい、自分にとってはどうでもいいことを知ることも重要だと思う。どうでもいいことにはどうでもいいと言う中で、それでも、これだけはどうでもよくないと思えるものだけは、残された日々の中でしっかりと掴んでいきたいと思っている。


10・プロの定義は「飯が食えていること」なんかではなく、食えなくとも、それで生きると決めた人間の覚悟だ。


私は「生活のために生きる」ことよりも「生命のために生きる」在り方を優先させていきたいと思っている。そんなんじゃ生きていけないよと言われても、周囲の人間からどれだけ散々に罵倒されても、仕方がない、自分にはこうすることしかできなかったのだという『必然性』の中に、自分として生まれたことの喜びを見出していきたい。

プロの定義は「飯が食えていること」なんかではなく、食えなくとも、それで生きると決めた人間の覚悟だ。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【SVO-バルセロナ】神は「好きなように生きなさい」と言っている。

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モスクワを経由してバルセロナに入った。日本を発つ前、周囲の人たちからは「ロシアの航空会社はリスキーだ」とか「治安が悪い」などと言われたが、情報は幻想で、そんなことはないのだということがわかった。夜間の気温は10度を下回り、11月のような気分を味わえた。


今回は、新潟の大学院に通う友達のK氏と一緒に行動をしている。彼は大のサッカーファンで、本日12日(土)にマドリードで開催されるバルセロナアトレチコマドリードの試合を心の底から楽しみにしている。そんなK氏を嘲笑うかのように、バルセロナの地下鉄で、K氏のiPhoneが盗難の憂き目にあってしまった。

Don't be afraid, but be careful.ー 調子に乗ると即死する。


私たちはバルセロナの地下鉄に乗る前に、サグラダファミリア近くのテラスカフェでパエリアと共にサングリアを飲みながら「幸せだね」などと話していた。風が吹く。雲が流れる。空が青く澄み渡っている。温暖な地中海気候に包まれ、多幸感に溢れていた。そして、完全に油断をしていた。それからサンツ駅に向かう途中の地下鉄の中で、K氏のiPhoneは消えた。

油断をすると完全にもっていかれる。調子に乗ると即死する。過剰に何かを恐れる必要はないけれど、注意深くある必要はある。悲嘆に暮れたK氏と共に、我々は警察に足を運び、これも授業料だと開き直ってマドリードに向かった。

自分を、ひとりのまま(自分のまま)にしておいてくれること。


海外に足を運ぶメリットのひとつに、おそらく「決断力がつく」というものがある。今夜は何処に泊まるのか、次は何処に行くのか、飯は何を食べるのか、など、様々なことに対する決断力が求められる。そして、それに伴う意思表示力のようなものも同時に身につく。自分はどうしたいと思っているのかを、的確に、簡潔な言葉(現地の言葉)で相手に伝える必要がある。

余計なBGMが流れていないことも良い。自分に集中できる。同じような音楽を、同じような環境で、同じような頻度で聞かされていたら、どうやって自分を保てばいいのかがわからなくなる。私はテレビが非常に苦手で、同じような理由から、過剰なBGMや、街中のアナウンスや、電車内の広告を苦手としている。

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余計なものがないことの何が魅力的なのかを考えた結果「ほっといてくれる」ことなのだと思った。それは、言い換えるならば「自分で決めろ」ということになる。余計なお世話、余計な干渉、余計なコントロールを加えないこと。自分を、ひとりのまま(自分のまま)にしておいてくれることは優しさだ。


いまいる場所が世界のすべてではない。


いまいる場所が世界のすべてではない。自分が知っていることの何倍も、自分の知らない世界は広く豊かに存在している。こうでなければいけないということはない。誰も、何も、禁止も強制もしていない。ただ、自分がそうしたいからそうしているのだ、海外に足を運ぶと、そういうことを思う。

自分が知っていることなど全体の一部にしか過ぎないのだ、という思いは自分の思い上がりをセーブする、要するに、ある種の謙虚さを生む。自分は何も知らなかったのだ、そして、いまの自分は、少なくとも何も知らなかったのだということだけは知ることができている。そう思える瞬間の中には不思議な喜びがあり、喜びの中には「希望」がある。


「一回いけばいい場所」と「もう一度いきたくなる場所」の違い。


正直に言えば、実際にサグラダファミリアを見た時に「こんなものか」と思った。そのことを同行していたK氏に伝えると、彼は「なんとなくわかる気がします。ぼくは自由の女神を見たときに、同じようなことを思いました」と言った。

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ここは一回いけばもういいやと思う場所と、ここは繰り返し足を運びたくなる場所がある。この違いは何だろうか。おそらく「ひと」が何かしら関与しているような気がしている。会いたいひとがいれば、どれだけ僻地であろうとも人間は何度でも足を運ぶ。パエリアが美味かった、このパエリアをあのひとにも食べさせてやりたい、ここの景色が最高だった、この景色をあのひとと一緒に眺めてみたい、など、何かを見たときに思い浮かぶ「誰か」の存在が、再び足を運ばせる動機のひとつになるのかもしれない。


神は「好きなように生きなさい」と言っている。


サグラダファミリアを眺めながら、ふと、世間で言われているところの宗教について思いを馳せていた。アントニオ・ガウディは熱心なカトリック信者で、その思想なり宗教観が色濃く建築に反映していた(ように思う)。私は、その佇まいから厳粛で敬虔な雰囲気だけではない、何か、堅苦しさのようなものを覚えた。

この堅苦しさの正体は何か。多分、これは神と呼ばれているものの認識の違いだと思う。私は、過去に渋谷のはなまるうどんで数時間だけ神様になるという稀有な体験をした。そして、少しだけ神の気持ちがわかったような(完全に勘違いかもしれないけれど)気がした。


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神は「あれをしなさい」とか「これをしなさい」みたいな禁止や強要をしたりはせず、ただ、そのままでいいから、自分の好きなように生きなさいと言っている。私にとっての神は、他人に何かを強制したり、自分と同じであることを期待もしない、ただ、そこにある(「わたしはここにいる」そして「自分の好きなように生きなさい」と認識させるため)だけの存在になる。

今月の頭、いばやの全国ツアーで仙台に訪れた際に立ち寄った喫茶店の店主さんから、村上龍が翻訳をしているリチャード・バックの「イリュージョン」という本を譲っていただいた。この本のあとがきには、このような事柄が綴られていた。

人間が本当に愛するものを見つけるのはとても大変なことで、それがすべて、要するに人生の中心だと思うね。一生かかっても、ついにそれが見つからない人も多いと思うんだよ。だけど、ドアが閉まっていても、いつかは絶対に自分の好きなものが見つけられると、そういうふうに導かれているんだと信じることだね。だいたいは、どこもかしこも閉まっていると、絶望的になっちゃうんだよ。だけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分のいちばん求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつずつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ。

人間は大体、目に見えるものしか信じないでしょう?たとえば、汽車の二本のレールは地平線のとこで絶対にくっついて見える。そういうふうに見えるからそう信じているけど、そうじゃないんだね。飛行機で線路の上を飛ぶと、二本のレールは、行けども行けども平行なわけだ。また、雨が降って、地上では傘をさしている。人々は頭上に太陽があることを忘れているわけだ。だけど、ひとたび飛行機で上に上がってしまえば、そこに太陽は、あるわけなんだよ。

人間が学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴンワールド(現実の、悪意に充ちた世界)なわけだ。地球上には三十億だか、四十億だかの人間がいて、おまえはその三十億プラス一の余り物にすぎない、おまえのことなんか誰も関心を持っていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ。

どうやってそれに対抗するかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうことだってあるけど、張り倒されても、まだ歌い続けることだ。もちろん、ドラゴンワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうしようなんていうわずらいもある。それはしようがないから、思いわずらい、駆けずり回りながらでも、自分の歌だけはうたい続けるわけだ。

これからの『神』というのは、決してわれわれに信じて貰うことを要求するのではなく、結局、この世の中はひとつのゲームであって、そのゲームをできるだけエンジョイするためにわれわれは生きているんだということを認識させるために存在する、そういう形での神でしかあり得ない、と僕は思っている。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【BCN-マドリード】孤独を身につけた人は、誇り高い。

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バルセロナを経由してマドリードに入った。空が青く、気候は温暖で、爽やかな風が吹き抜けている。街を歩く人々の表情も緩やかで、若者からお年寄りまで、赤や緑や黄色など、カラフルな服装をしている9月のスペインはベストシーズンなのかもしれない。


散歩をしながら空を眺めているだけでも、幸せな気持ちになる。マドリード最大の目的はバルセロナアトレティコマドリードの試合を観戦することだったのだけれど、驚いたことに前半戦は客席で寝てしまった。しかし、後半戦はネイマールとメッシのゴールを眼前で目撃することができたので、非常に良かったのだと思う。

世界三大美術館「プラド美術館

スペインにはピカソやダリやゴヤクリムトなど、著名な画家が大量にいる。世界三大美術館のひとつでもあるプラド美術館は、日曜日の午後からであれば無料で入場できる。半端ない広さに度肝を抜かれた。この規模で無料は半端ないな、日本は何で立ち向かえばいいのだろうか、無理だ、みたいなことを思った。

近くにはソフィア王妃芸術センターという立派な建築の美術館もある。こちらも日曜日の午後からは無料で入場することができる。通常であればどちらも10ユーロ以上の入場料がかかるのだけれど、曜日指定で入場が無料になる海外のシステムは素晴らしい。ソフィア王妃芸術センターには、ピカソの「ゲルニカ」や「泣く女」なども展示されていて、その迫力を真近で体感することができる。

静けさと激しさが同居したもの。

様々な作品を眺めながら、わたしは「静けさと激しさが同居している」ようなモノが好きなのだと思った。これは芸術に限らず、その他の自然や人間や物事に対しても共通して抱く感覚であり、無駄に元気なだけのもの(ポジティブシンキングとか過剰なテンションの高さとか地に足の着いていないスピリチュアルなど)は苦手だけれど、静謐にして苛烈なものを見ると、自分の内側から「おおおおおおお」と湧き上がる何かを感じることができる。

そして、孤独について考えていた。孤独という言葉から、ポジティブな印象を受けるのか、ネガティブな印象を受けるのか、どちらの印象を抱く人が多いのだろうか。一般的に、孤独は「あまり歓迎すべきものではない」ものとして捉えられることが多いように見受けられる。言い換えれば、この世の中にある様々なイベントやサービスやソーシャルアプリケーションは「孤独をごまかすため」に存在しているように感じることがある。

孤独な時、それはきっと、自分に必要な何かに対峙をしている時だと思う。孤独をごまかせば一時的な苦しみからは逃れることができるけれど、同時に、自分自身を取り逃がす。多分、孤独な時にひとは「ほんとうの言葉」を見つける。それは、他の誰でもない自分自身の内側から湧き出してくる言葉であり、誰にも汚染されていない、純粋な熱情が含まれている。

孤独を掘れば、みんなと出逢える。

鋭い視点でいつもわたしを驚かせてくれる素晴らしい女性がいる。彼女の名前をNとする。Nは言う。「私には『ひとつの大きな命』を、みんなで生きている感覚がある」。この言葉を思い出していた。人間はふたつの命を生きている、自分自身のこの命と、全体で生きている『ひとつの大きな命』の、ふたつの命だ。

わたしには「孤独を掘れば、みんなと出逢える」という感覚がある。徹底的に自分を掘れば、最終的に行き着く場所で、同じように掘り続けていた『みんな』と出逢う。それは地球という球体をどこまでも深く掘り続けていけば、必ず最終地点で巡り合うことができるように、ひとつの山を別々の場所から登ったとしても、最終的には山頂付近でみんな(登り続けたひと・掘り続けたひと)と出逢えるように、続けることで出逢える多勢の『みんな』の存在を感じている。

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孤独を感じる時期は辛いが、自分の気持ちを誰かに理解してもらおうとか、寂しさを紛らわすために投じる時間は、充実よりも虚しさに繋がりやすい。理由は単純で、表面的だからだ。表面的な繋がりは、自分の内側から湧き出してくる「ほんとうの言葉」を引き離してしまう。

マヤ語の挨拶には「あなたはもうひとりの私です(私はもうひとりのあなたです)」という意味が含まれているらしい。目の前にいる誰かは『まったくの他人』ということではなく、それを『もうひとりの自分自身』だと捉える。言い換えるならば、ひとりひとりが独立した木であるいうイメージではなく「ひとつの大きな木の幹があり、そこから派生しているひとつひとつの枝や葉が、ひとりひとりの人間である、要するに、根本は同じなのだ」ということになる。

孤独を身につけた人は、誇り高い。

どれだけ遠くに足を運んでも、どれだけ多くの経験を積んでも、自分の中にある孤独を掘り続けることがなければ、自分の根幹を定めるほどの言葉を獲得することはできない。

孤独はごまかすためにあるのではなく、まだ何にも汚されていない、誰にも汚染されていない「ほんとうの言葉」を獲得するためにあるのだろう。そして、ほんとうの言葉は、橋を架ける、自分はひとりだなんていうことを吹き飛ばしてくれる。

孤独を掘れば、みんなに出逢う。ほんとうの言葉を手に入れた瞬間から、多分、そのひとは既に「ひとり」ではない。孤独を身につけた人は、誇り高い。他の誰でもない自分自身の内側から湧き出してくる言葉の中には、誰にも汚されていない、純粋な熱情が含まれている。

孤独を身につけた人は、誇り高い。

マドリードの空は青く澄み渡っている。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【MAD-マヨルカ島】自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということと、多分、同じだ。

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マドリードを経由して、地中海の真珠で名高いマヨルカ島に入った。マヨルカ島の主要産業は観光業であり、事実、街並みもビーチも料理も素晴らしい。ドイツ人にとってのマヨルカ島は、日本人にとってのハワイみたいなものになる。唯一の違いは、欧州はLCC(格安航空会社)が発達しているために、ハイシーズンの九月でさえも、近隣諸国に片道5000円程度から行けることだ。


マヨルカ島に来ることになったきっかけは、日本から私のもとに届いた一通のメールだった。そこには、このような内容の事柄が書かれていた。ー いま、わたしの妹がスペインのマヨルカ島にいる。一ヶ月くらい生活をしているのだけれど、言葉の壁により精神的なストレスを抱えていないか心配なので、もしよかったら航空券代金は自分が負担するので、妹に会いにいってくれませんか?

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このメールが届いたのが今週の日曜日。私はまだマドリードにいて、大幅な金欠により「さて、これからどうしようか。野原で横になりながら、お花さんや、小鳥さんと友達にでもなろうか」などと考えていた。そのような状態の中で届いたメールだったので、マヨルカ行きは速攻で決まった。翌日の月曜日の昼には、私たちはマヨルカ島に到着した。



奇跡は余白に舞い込む。


ショパンが療養のためにも訪れていたマヨルカ島は、年間300日は晴れるという素晴らしい気候にも恵まれている。そこで私たちは合流した。待ち合わせ場所に数時間遅れたことや、現地テレビ局から謎の取材を受けたこと、途中で知り合った日本大好きなスペイン人「ダビッド君(18)」が仕事をサボって夕食をご馳走してくれたことなどは割愛する。

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奇跡は余白に舞い込むという。スケジュールが余白だらけだった我々は、こうして奇妙なご縁の恩恵を被ることができた。マヨルカ島でお会いした女性の名前はHさん。Hさんとは様々な話をしたけれど、その中でも一番印象に残った「恥ずかしさ」について、色々と思うことがあった。



マヨルカ島ヌーディスト(ではない)ビーチ「イレテス」


Hさんの案内で、マヨルカ島にあるビーチに来た。市街地からバスで30分程度の距離にあり、非常にアクセスが良好で大量の旅行客で賑わっている。海の青さが常軌を逸していた。青い。とにかく青い。こんなに綺麗な青を見たのは、生まれてはじめての経験だった。

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このビーチはヌーディストビーチな訳ではないけれど、欧州の女性陣は年齢を問わず平気で上半身裸になる。日常的に女性の裸を目にする機会は少ないけれど、このような場所では普通になる。普通だったら恥ずかしいこと、この「恥ずかしさ」とは何だろうか。人間は何に対して恥という感覚を覚えるのだろうか。

見られることが恥なのか、見られないことが恥なのか。

Hさんは趣味でベリーダンスをやっている。ベリーダンスの衣装は露出が激しい。平気でお腹を出したり、要するに自分の体型が露呈する。最初はHさんも「お腹を出すなんて恥ずかしい!」と思っていた。しかし、やがて「みんながお腹を平気で出している衣装を着ている中で、自分だけお腹を隠した衣装を着ている、まさにこのことが恥ずかしい」という風に思うようになった。

最初は「出す」ことが恥ずかしいと思っていたHさんも、やがては「出さない」ことが恥ずかしいのだと思うようになった、ということを話してくれた。恥の概念(?)が逆転したのだ。「その場に馴染まない自分が恥ずかしいのかもしれない」とHさんは話した。そして、私も思い出したひとつのエピソードを話した。

「隠すから恥ずかしい」ということ。

私は男なので、銭湯や温泉などでは男風呂にはいる。当たり前のことだけれど、そこには男しかいないので、誰もがすっぽんぽんのままで施設内を歩いている。しかし、稀に二十歳くらいの男子が、恥ずかしそうにタオルで前を隠しながら歩いているのを見ることがある。誰もが普通に晒け出している中で、彼だけが前を隠しているために、異様に目立つ。自然と視線は彼の方にいき、結果的に彼は「自分を隠すことで逆に目立つ」という、期待している効果とは真逆の事態が発生してしまっている。

隠すから恥ずかしいのではないだろうか。私は、彼を見ながらそういうことを思った。何かに対して「恥ずかしい」という感情を抱く時、その対象を出来るだけ人目に触れないように隠そうとする。この心理は理解できる。しかし、隠すから恥ずかしくなるということであれば、見られて困るものがないひとは、何も恥ずかしがる必要はないということになる。

自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということと、多分、同じだ。


恥ずかしさが自分の行動を抑制してしまうことがある。たとえば、いまの私は海外にいる。言葉が通じないことを恐れて積極的に他人にコミュニケートできない(取材にまともに答えられない)時などがある。そういう時、私は何を恐れているのだろうか。何を恥ずかしがっているのだろうか。それは、安易な言葉で言えば「失敗」であり、何かがうまくいかないことを恐れてしまって、自分の行動に二の足を踏んでしまう瞬間がある。

しかし、うまくいこうが、うまくいかなかろうが、自分は自分以上でも自分以下でもないのだから、自分自身をダイレクトにぶつけて行くしかない。重要なのは「うまくやること」なんかではなく、失敗しても、恥をかいたとしても、自分はやれることはやったのだという清々しさを感じることができる限り、それは素晴らしい人生のプレミアムシーンになる。

自分に恥ずかしくない生き方をするということは、恥の多い生き方をするということと、多分、同じだ。うまくやろうとするのではなく「ダメでもいいのだ」という許可を自分におろせた時、その人は無敵になる。この「ダメでもいいのだ」という人生の素晴らしい逆説は、人間を無敵にする。そして、本来であれば誰もが無敵な存在だったということを、優しい感覚と共に思い出させてくれる。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【PMI-グエル公園】赤ちゃん最強説。ー 最弱になるほど最強になるのか??

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マヨルカ島を経由してバルセロナに入り、ガウディが建築に関わっていることで評判のグエル公園に足を運んだ。マヨルカでは所持金が限りなくゼロに近づき、果たして自分はどうやって祖国に還るつもりなのだろうかとお花畑を彷徨っていた(途方に暮れていた)ら、バルセロナ在住の日本人の方からの奇跡的な連絡が舞い込んで九死に一生を得た。

「坂爪さん、もしよろしければバルセロナで講演会をしてみませんか??マヨルカからの航空券代金などは負担します。バルセロナ在住の友達にも声をかけてみたいと思っているのですが、まだ宿泊先などが決まっていないようであれば、自宅のソファを使っていただいても構いません」

家のない生活をはじめた当初は、数か月後の自分がまさかバルセロナで講演をすることになるとは思ってもみなかった。ちょうど同じタイミングで、たまたまバルセロナに来ている日本人女性のRさんから「会ってお話できませんか?」と連絡をいただいたので、いま、iPhoneをすられて傷心中のK氏と三人でテーブルを囲んで話している。


1・金がなくなってからの方がいいものを食ってる。

Rさんは、秋田県出身の私と同世代の女性で、およそ10か月前から欧州で旅を続けている。欧州では、労働力を提供する代わりに宿や飲食を提供してもらう様々なシステムがあり、Rさんはそのシステムを駆使して生活を続けている。

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(それっぽくインタビューに答える私)
 
坂爪「今回はご連絡をいただきありがとうございます。メールでは『一緒にご飯でも食べながら話しましょう』とか格好つけたことを言ってしまいましたが、諸事情により、私とK氏の所持金が二人で6ユーロとかしかなくて、なので、誠に申し訳ありませんが、そこら辺のベンチで話すとかでもいいですか??」

Rさん「いえいえ、こちらこそお時間を作っていただいてありがとうございます。そう思って、というのも失礼かもしれませんが、今回は私がお二人の食事代をご負担するので、何処かで美味しいものを食べましょう」

坂爪「えっ!」

K氏「えっ!」

坂爪&K氏「いいんですか!」

Rさん「もちろんです」

K氏「ありがとうございます…なんだか、我々マヨルカ島でも様々な方々のご好意に授かっておりまして、謎にお金がなくなってからの方がいいものを食っているという不思議な状態におかれておりまして…誠にかたじけないです」

Rさん「二人でいるときは何を食べているのですか??」

坂爪「やすくて大きなパンとか…」

K氏「2ユーロの固いやつとか…」

2・最弱は最強なのか?ー 赤ちゃん最強説。


Rさん「わたしもこの旅で、様々な方から与えてもらう体験をさせてもらってきたので、こうして受け取ってもらえることはとてもうれしいです」

坂爪&K氏「ほんとうにありがとうございます」

Rさん「それにしても、お金がなくなってからの方がいいものを食べているというのは面白いですね」

坂爪「うん。そうなんです。自分たちでご飯を食べていたときはゴミみたいなものばかり食べていて、たまにパエリアとかを食べては『奇跡の味だ!』とか言っていたのですが、ここ数日、我々の所持金が皆無に近づくほどに、謎に豪華な料理を食べることができていることがとても不思議で、ありがたくて」

Rさん「それは坂爪さんが受け取り上手だからなんじゃないですか??」

坂爪「どうなんだろう…」

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(比較的早い段階で調子に乗り始める私)

坂爪「最近は、赤ちゃん最強なんじゃないだろうか説のようなことを考えることが多くて、赤ちゃんってなんにもできないくせに、なんでも受け取ることができているというか、最弱にして最強である赤ちゃんの存在が興味深くて」

Rさん「赤ちゃんですか」

坂爪「私たちも、所持金が少なくなるほどに、食べているものの質が明らかに向上しているのです。この現象はなんだ、と言いますか、ひどく抽象的な話ではありますが『最弱になるほどに最強になる』感覚を覚えているのです」

3・生き残れたのは「かわいい」から??


坂爪「この感覚をうまく伝えることは非常に難しいのですが、私が家がなくても金がなくても色々なものがなくても死なずに生きてこれたのは、別に言語化能力があった訳でも、前向きな意志や行動力があった訳でもなくて、単純に『かわいかった』からなんじゃないのかなとか思うことがあって」

Rさん「はい」

坂爪「こんなことを自分で言うのは愚の骨頂だと承知で話すのですが、かわいさとか、ユーモラスな存在というか、真面目なだけではないくだけた部分といいますか、そういうものがとても大切であるような気がするのです」

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(「かわいい」について熱弁する私)

Rさん「なるほど」

坂爪「いばやを一緒にやっているMAYUも、かわいいは最上の概念であり、かわいければ私はそれを使いたいけど、かわいくなければ使いたい気持ちが起こらないということを前に話してくれたことがあって」

Rさん「はい」

坂爪「誤解を恐れずに言うと、ダサいひと(同じかわいいを共有できないひと)とは同じ時間を過ごせない、正しくても、どれだけ便利でも、かわいくなければかわいくない!といいますか、アトモスフィアかわいいが非常に大切であるといいますか」

Rさん「言わんとしていることは、なんとなくわかる気がします」

4・かわいくなければ生きていけない。


坂爪「かわいいっていうのが、なんかものすごい大切な気がするのです」

K氏「どうすれば、ひとはかわいくなれるのでしょうか??」

坂爪「わかりません」

Rさん「かわいいひとには、素直とか、正直とか、なんというか『そのまんま』で生きている感じがありますよね」

坂爪「それは確かに!なんか、私は素敵なひとを見ると『良くぞそのままで生きていてくれた(そしてこれからもそのままでいて欲しい)』という気持ちにならます。なんというか、そのままであることを良くぞその年齢になっても維持し続けてくれたという、積み重ねられた(死守され続けている)かわいさみたいなものに、私は強く惹かれるのです」

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(Tシャツの下に着ているのは『着るマッサージ』でお馴染みの逸品・SKINS)

Rさん「ツイートにもあった『可愛い人は不完全による余白を肯定している』というのも、興味深い指摘ですね」

坂爪「多分、その人がそのままその人である限り、その人はかわいくなるような気がします。根本的にみんなかわいくて、だけど、何かしらの要因が関係して『かわいいままではいられなくなった』あたりから、なんか変な感じになるのだと思います」

5・自分の身体は自分のものでもあり、みんなのものでもある。

Rさん「それにしても、坂爪さんはよく金もない状態で不安になったりしませんね。何かこう、根底から湧き上がる『大丈夫だ感』みたいなものがあるのですか??」

坂爪「うーん」

K氏「ぼくは、この旅でそれを痛感しました。最初、マドリード辺りで金がなくなった時は『死ぬ!』とか思っていたのですが、現にいま、どうにかなっている自分を見ていると『意外とどうにかなるんだな』ということが肌感覚でわかりました」

坂爪「確かに!」

K氏「最初はやばかったですけど」

坂爪「何か、別に普段から『自分は大丈夫だ』とか思っている訳ではないのですが、最悪サグラダファミリアの前で顔に泥を塗ってダンボールに日本語で『誰か助けて…』とか書いて掲げておけば、必ず誰かが声をかけてくれるだろう、そして、その瞬間から誠心誠意を込めて事情を話せば、1ユーロくらいはもらえるだろう。これを数回繰り返せば、別に死ぬことはないだろうみたいなことは常に何処かで思っています」

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(買ってもらったサングリアを飲みながら話を聞く私)

Rさん「わたしもそれと似たようなことは思うようになりました」

坂爪「アイムジャパニーズ、ユアージャパニーズ(私は日本人、あなたも日本人)マイボディ、イズ、ユアボディ(私の身体はあなたの身体)ユアマネー、イズ、マイマネー(あなたのお金はわたしのお金)みたいな呪文を唱えると思います」

6・今回のホームランはK氏の「泊めてくれない??」

坂爪「今回はK氏がホームランをかっ飛ばしたんです」

Rさん「ホームランですか」

坂爪「うん。マヨルカで、K氏が道に迷って尋ねたスペイン人が日本大好きで、簡単な日本語が話せる18歳の男の子だったんです。で、その子が道を教えてくれて、最後まで一緒に歩いてくれて、そして、挙げ句の果てには夕食までご馳走してくれたんです」

Rさん「優しいですね…!」

坂爪「それで、我々完全にお金がなくって、あとは自己責任でそれぞれで行動していこう(生き抜いていこう)ということになっていたので、K氏も必死で、それでその男の子に突然日本語で『泊めてくれない??』って話しかけたんです」

Rさん「おおー!」

坂爪「一緒にご飯を食べているときに、ほんとうに、いきなりK氏がそんなことを言うものだから、俺も『唐突すぎるだろ!!』って爆笑してしまって。そして、驚いたことにその男の子も、即答で『いいよ』とか言うのです」

Rさん「おおー!」

坂爪「それで、俺もまじかってなって、結果的にK氏はその男の子の家に二泊することになったんだよね??」

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(氷が溶けちゃう前にサングリアを飲みたいのでK氏に話を振る私)

K氏「はい、そうです。その男の子はダビッド君というのですが、その家がオーシャンビューの豪邸で、お母さんもほんとうにぼくに良くしてくれて、車で海や山に連れていってくれたり、手料理を食べさせてくれたり、その度に喜ぶぼくを見てお母さんはどんどんぼくに良くしてくれて、ぼくは『ああ、愛されてしまっている』と強く感じて幸せでした」

〜 回想 〜

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(K氏の幸せ三連発)

7・空港で眠ると布団で眠れる喜びが増幅する。

Rさん「坂爪さんも誰かのご自宅に泊まったりしたのですか??」

坂爪「ぼくはすぐにひとりきりになりたがってしまうので、明日、バルセロナ在住の方の家に泊めていただく以外では、基本的にはホテルに泊まったり空港で寝たりしていました」

Rさん「空港とはバルセロナ空港ですか??ちゃんと寝れましたか??」

坂爪「はい、バルセロナ空港です。治安に問題はなく、早朝の4:30頃に空港職員から『横になるな』と叩き起こされた以外は快適な睡眠を維持することができました」

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(幼き日の私。床屋の両親のもとに、三人姉弟の末っ子として生まれる)

Rさん「つらくないのですか??」

坂爪「野宿もやってみれば出来るもので、コツは、好きな音楽を思い出すことにあると思います。わたしの頭の中では謎に川本真琴の『1/2』が流れ続けていて、妙にハイテンションでした」

Rさん「そうですか」

坂爪「あと、これは家のない生活をはじめてから痛感したのですが、野宿のあとの布団は最高だということです。野宿しているまさにその瞬間はつらいものかもしれませんが、つらければつらい分、翌日布団で眠れることの喜びは増幅します。多分、単純に裏表なんだと思います」

8・最大の目的と最大の成果は、往々にして変化をする。

Rさん「スペイン滞在のこの一週間はどんな感じでしたか??」

K氏「最初はサッカーの試合を見ることが最大の目的だったのですが、そこではメッシやネイマールのゴールも見ることができてかなりラッキーなことだったとは思うのですが、結果的に一番思い出に残ったのはマヨルカ島でした」

坂爪「最高だったよね」

K氏「最大の目的と、最大の成果は違うものになるみたいです。結果的に、ぼくは友達にサッカーを見ることよりもマヨルカ島に行くことを勧めるだろうと思います」

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(幼き日の私。当時から、生きていることの不思議と驚きに包まれていた)

坂爪「何かをやり始める理由と、何かをやり続ける理由って変わるよね」

K氏「変わりますね」

9・特別なことは何もしないでいいから、風を浴びるためだけに海外に行く。

Rさん「なんだか、ここでこうして三人で話しているということが不思議ですね」

坂爪「そうですね」

K氏「スペインは夜の八時まで、平気で外も明るいですもんね。テラス席も多いし、こうして外で風を浴びているだけでも気持ちがよいですよね」

Rさん「そうですね」

坂爪「こういう時の感覚って、なかなか日本では感じることが難しい感覚だと思うんだ。別に無理をしてまで海外に行く必要はないとは思うけれど、何をするでもなく、ただ『風を浴びる』ためだけに海外に足を運ぶのも、悪くないことだと思うんだ」

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(幼き日の私。知り合いから「全然変わってないですね!」と言われた時は嬉しかった)

K氏「そうですね」

坂爪「なんかさ、これはクアラルンプールでスイカジュースを飲んでいる時にも強く思ったんだけど、みんなで幸せになろうぜ、みたいな気持ちになるよね」

10・iPhoneをすられても、所持金が少なくても清々しく生きる。

Rさん「気がついたら長い時間話し込んでしまいましたね。今日は時間を作っていただきありがとうございました」

坂爪「いえいえ、こちらこそありがとうございました。私とK氏のふたりではクソみたいな時間しか過ごすことができないので、非常に有意義で楽しい時間になりました」

K氏「ぼくもすごい楽しかったです」

Rさん「坂爪さんが話しやすいひとで良かったです」

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(憂いを帯びた微笑みを投げかける私)

坂爪「今日の結論としては、赤ちゃんこそ最強であると。最弱こそ最強であり、意外と人生はどうにかなるのだから、気持ちの良い風を浴びていこうぜ、と」

Rさん「ありがとうございます」

坂爪「清々しくいきたいですよね」

Rさん「清々しくいきたいですね」

K氏「清々しくいきましょう!!」

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【BCN-モスクワ】多分、美しいものに囲まれていれば人間は勝手に美しくなる。

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バルセロナで開催されたイベントを経由して、モスクワの名所「赤の広場」に来た。本当はトレチャコフ美術館(と、その近くで営業している謎の丸亀製麺モスクワ支店)に行きたかったのだけれど、月曜日は休館日とのことで愕然とした私達は、何もすることがないので非常に観光っぽいことをしている。


モスクワのひとびとの仏頂面はたまらなくぶっきらぼうだけれど、べらぼうに可愛い。ヘルシンキの雰囲気とも似ている為に、北欧に興味のあるひとは是非足を運ぶ価値があると思う。バルセロナに行く便などは、モスクワを経由していく便が多いために、トランジットビザを取得して日帰りの観光を楽しむには最適の場所だ。寒い国独特の個人主義が蔓延っている。



海外までの渡航費は想像よりも高くない。

今回のモスクワ経由のバルセロナにかかった交通費は、東京からの往復で六万円程度だった。航空券を調べてみると、たとえば今年の年末の時期でさえも、いまならスリランカが往復五万円、ドバイが往復六万円程度である。格安航空券の発達により、たとえばドイツからタイまでが片道一万円の時代になった。世界を一周するのに、金はあまり問題ではなくなっている。それでは何が問題になるのか。おそらく、それは遊び心とかアイデアとか愚かさとか、そういうものになるのだろう。

寒い国の人間は頭がおかしくなる。

バルセロナ経由でロシアに入ったために、ロシアの寒さが身に沁みる。明け方の気温は10度に満たない。しかし、この気温が非常に心地よかったりもする。たとえるなら、バルセロナが温泉で、モスクワは温泉のあとに入る水風呂の魅力がある。要するに、身が引き締まるような感覚を覚える。

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(ロシアのハロウィン。はっちゃけ方に軽い狂気が漂っている)

ロシア人は背が高い。南国の人は背が低い。私のふるさとである新潟県民も身長が高く(日本一らしい)、180センチを超える男性が大量にいる。そして、ロシアやヘルシンキ新潟県には変態が大量にいる。寒い国の人間は、冬場、雪で閉じ込められてしまうために精神世界が良くも悪くも充実する。モスクワがとても魅力的に見えるのは、何かしらのシンパシーを抱いているからなのかもしれない。



モスクワに英語は少ない。

モスクワに英語表記の看板は少ないために、駅などの表示を見ても謎の暗号にしか見えない。まるで意味不明で、容易に迷うことが可能だ。しかし、現在はWi-Fiが発達している。空港や駅やカフェなどにはWi-Fi環境が充実しているために、iPhoneさえあればどうにでもなる。素晴らしい時代に生きているのだと思う。

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(モスクワのスターバックス。ロシア語が可愛い)

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(モスクワのマクドナルド。ロシア語がべらぼうに可愛い)

ロシア人の表情は厳しい。何か怒っているように見える。しかし、本質は人懐っこさにあるらしく、何かあると意外と気軽に話しかけてきたりする。それが嬉しい。そのぶっきらぼうさが嬉しい。私はブルドッグが愛される理由について思い出していた。私は(頭が良いことよりも仕事ができることよりも金や名誉や社会的地位があることのりも)かわいさが重要であると思っている。それはチワワ的なかわいさもあれば、ブルドッグ的なかわいさもあり、ゴールデンレトリバー的なかわいさもある。


多分、人間は美しいものに囲まれていれば勝手に美しくなる。

誤解を恐れずに言えば、私は、常に何かに怒りの感情を抱いているような人が苦手だ。各種SNSを開けば、常に職場や上司の不満を口にしたり、自分の正義感に反するひとを見てはブチ切れている人達が日本にはたくさんいる。そのエネルギーが勿体無いと思う。どうすることもできない他人の気持ちよりも、どうにかすることのできる自分の気持ちに集中すればいいのに、と、当たり前のことを思ってしまう。

多分、人間は美しいものに囲まれていれば勝手に美しくなる。同じように、醜いものに囲まれていれば勝手に醜い存在になってしまう。他人の悪口や自分の嫌いなひとにエネルギーを注いでしまうと、いつの間にか醜さは感染し、そのひと自身が醜い存在に成り下がってしまう。

海外に足を運ぶ良さのひとつに、自分の知らなかった美しい何かと出会える可能性がある、というものがある。まったく馴染みのなかったモスクワという街には、美しい景色がたくさん転がっていた。そういうものに触れることができたとき、私の感情は楽しさと嬉しさで高鳴り、誰かと喜びを共有したくなる。そして、ひとつのことを思い出す。私が共有したいと思っているのは『憎しみではなく喜びだ』ということを、忘れる度に思い出すことができる。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【SVO-鹿児島】百回の慰めよりも、一回死ね。

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モスクワを経由して成田に入り、小規模な天国旅行を終えた後に、鹿児島に向かった。モスクワから成田までのフライト時間はおよそ10時間だったので、成田から鹿児島までの二時間のフライトが非常に気楽に感じる。一度遠くまで足を運んでしまえば、心理的な距離が一気に縮まる。あれほど遠いと思っていたヨーロッパでさえも、その気になればいつでも行けるのだということが分かった。


鹿児島に来た目的は、古くからの友人であるミッドナイトランナーズ鹿児島の主催者である上水流君が「何かをやろう!」と声をかけてくれたことがきっかけとなり、鹿児島中央駅前の下堂薗茶舗という非常にお洒落な飲食店でトークイベントが開催された。あまり知られていないけれど、鹿児島は日本有数の日本茶の産地で、その気候柄、日本で一番早い新茶を楽しむことができる。わたしの故郷である新潟のこしひかりと鹿児島の新茶を掛け合わせれば、最強のお茶漬けができるかもしれない。

百回の慰めよりも、一回死ね。


トークイベントなどに呼ばれて出演すると、開催される土地によって集まる人の人柄がまるで異なることが面白い。時には、参加者の半数以上の目が死んでいることもあって驚愕する。誤解を恐れずに言うと、自分以外の他人の話を聞くことで何かしらの癒しや救いを求めたり、何かこう『慰められること』を求めているひとの目は死んでいる場合が多い。

それはそれで面白いのだけれど、そういう場ではひたすらネガティブな質問責めに合う。どうすれば家がなくても生きていけるのですかとか、どうすれば自分に自信が持てますかとか、どうすれば他人の目線を気にしないでいられますかとか、どうすれば勇気を持つことができますかとか、不安になることはないのですかとか、恐怖とか、生きる上で大切にしていることはなんですかとか、何かこう「ここは地獄なのかな?」というような気持ちになる。

中途半端な慰めを求めるよりも、一回死んだ方が早いと思う。死にかけているシステムや都市や人間を、延命措置するだけの日常はつらい。古い自分には一回死んでもらって、新しい自分になって生まれ変わろう(よし、死のう!)という気概がなければ、多分、人間は割と早い段階でゾンビのようになってしまうのだろう。

延命措置に未来はない。


鹿児島のイベントに参加してくれた方々は、非常に柔和な方々が多くてアットホームな雰囲気の中で楽しむことができた。40名程度の参加者が全体で円になり、いばやの活動や坂爪に対する質問を投げかける形でイベントは進行された。私は、たとえば家がなくなったことで家が増えたとか、家がなくなったことで全国各地を巡れたばかりか世界にまで進出することができて、そして、いい家に泊まることができるようになったとか、自分で金を稼いでいたときは自宅で納豆ご飯とかを食べていたのに、金が途絶えて周囲からの施しを受けるようになってから、謎にふぐとかしゃぶしゃぶとかとか懐石料理とかフランス料理とか恵比寿のBARとか、豪華な食事をする機会が目に見えて増えたことなどを話したりした。

この現象は何なのだろうか。私にはなにも答えはわからない。知らぬ間に、わたしたちの脳内には「何でも自分の力でやって一人前」という考え方が根強くインストールされている。私は、多分、およそ一年半前に経験した「家がなくなる」という出来事を通じて、自力を諦め、自分の日々に他力を取り入れることを無意識のうちにはじめていたのだと思う。

死に様を晒せ。


「一回死ぬ」ということは、何かしらのヒントになるような気がしている。基本的に、いばやは逆張りで生きているので、多くの人が自分が有利になるような生き方をしようとしている雰囲気を嗅ぎ取ったら「損をしよう!(センスのある損をする奴が新しい!)」などと言って見たり、多くの人が幸せになろうとしている雰囲気を嗅ぎ取ったら「不幸になろう!(死のう!)」などと言って見たりする。


いばやをはじめる前の私は自営業のようなことやってみたり、アルバイトをしながら自身の生計を立てていたが、心の裏側には常に「いつか路頭に迷うかもしれない」という不安や恐怖があった。ホームレスになって路上で生活をすることになったらどうしよう、などと思っていたのだ。そして、思考は見事に現実化した。晴れてホームをレスした私にとって、路頭に迷うことは「不安」ではなく「現実」になったので、恐れている場合ではなくなった。そして、仕方が無いのでホームをレスした状態の中で生きて見たら、意外とどうにかなるばかりか(もちろんつらいこともあるけれど)楽しい部分も多大にあるという新鮮な発見に目から鱗が落ちたりもしていた。

人間は簡単には死なない。


誤解を恐れずに言えば、実は、誰もがほんとうは死たがっているのではないだろうかと思うことは多い。そして「死にたい」は「知りたい」と似ている。こんなことをやったら自分はどうなってしまうのだろうか、それを「知りたい」と強く思う時、古い自分にヒビが入って、魔人ブウのような不敵な笑みを浮かべた新しい自分が内側からひょこっと顔を出して「LET'S GO...(死んぢゃえ)」的なことを囁いてみたりする。

多分、人間は簡単には死なない。だからこそ、一回死ぬのはありだと思う。生きようとするからつらくなるのであって「よし、死のう」と思って何かに飛び込めば、死なないばかりか意外と清々しい結果になることは多い。慰めや救いを求めて彷徨う悲しみのゾンビになってしまう前に、古い自分を殺すこと。死ぬ瞬間の手前で感じるゾクゾクの中にこそ、多分、生きていることの実感が凝縮されている。


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人生は続く。

photgraphed by いづろベース

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【KOJ-ゴールドコースト】人間の役割。ー お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

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鹿児島を経由して博多駅前の「大地のうどん」に音速で立ち寄り、大分県国東市で開催されたイベントに出演してから成田に戻ってゴールドコーストに飛んだ。先週末はモスクワにいたので、連日のロングフライトに肉体も精神も悲鳴をあげている。というのは嘘で、ゴールドコーストの突き抜ける青が目にも鮮やかで心を震わせたりしていた。


今回の移動はほしなさんという男性と共にしている。ほしなさんとは、去年の秋頃、新潟と山形の県境にある日本国という珍しい名前の山をベアフット(裸足)で共に制覇した辺りから急速に親睦を深めた。異様な体験を通じて苦楽を共にしたひととは、最速で仲良くなる。小枝は踏むと痛いとか、落ち葉はまるでクッションのような肌触りだとか、上り坂よりも下り坂の方が全体重が乗っかるから殺られるとか、山路で歌うもののけ姫は格別だとか、ベアフット登山後の温泉は最高だとか、そういうことを共有できる。ほしなさんは過去に偉業を達成しているので、詳細をブログ記事でまとめたこともある。



奇跡はどこに落ちているかわからない。


今回、我々ふたりがゴールドコーストにいる理由は、上記のリンク記事「奇跡は余白に舞い込む」を面白がってくれた海外在住の女性読者の方が、もし良かったら一緒に遊びに来てくださいということで、私たちをゴールドコーストまで招待してくれたからだ。奇跡はどこに落ちているかわからない。私達は「スケジュールがガラガラでよかったね」と、自身の余白力(要するに暇人であること)を感謝していた。


誤解を恐れずに言うと、いばやの関係者は極端に「金を稼ぐのがあまり得意ではない」人達が多い。それでも死なずに生きてこられたのは、今回、我々を招待してくれたような方々が「生かしてくれるから」でしかない。稀に、坂爪さんはいばやとかやっていてすごいですねなどと言ってもらえることもあるが、すごいのはいばやでも坂爪圭吾でも何でもなく「いばや(坂爪圭吾)を支えてくれるひと」たちの存在であり、こうした方々がいてくれなければ、私たちはとっくに路上で野垂れ死んでいたと思う。

いばやとは何か?ー 「金を稼ぐのがあまり得意ではないひとたち」の実験。


合同会社いばやを設立して、およそ二年の月日が流れた。設立当初は「いばやの活動や存在が未来にとって必要なものであれば、周囲のひとたちが『こいつらを餓死させてはいけない!』ということになって、必ず助けてくれるだろう」ということを考えていた。そして「しかし、いばやの活動や存在が未来にとってまるで必要のないものであれば、いばやも私達も死ぬだろう」と思っていた。あとはもう、やってみなければわからない。それならば、自分たちのセンスに賭けてみよう。そう思いながらはじめたいばやも奇跡的に二年間は死なずに生き続けることができていて、改めて「いばやとは何か?」ということを関係者と一緒に話したりしている。

「生きるためには何かを売り続けないといけない」のか?


二年間続けて見て「いばやというスタイルを説明する言葉は、まだ、いまの世の中にはない」ということを感じている。強いて言うなれば、NPOと呼ばれる組織形態に似ているのかもしれない。この組織があった方が世の中が良くなりそうだからという理由で、たとえば寄付のような形でお金が集まったり、世界の各地に呼ばれてみたり、存在そのものを面白がってもらったりしている。

普通、会社が生き残るためには何かを売らなければいけない。しかし、私は「生きるためには何かを売り続けなければいけない」というスタイルに、軽い違和感を覚えている。違和感というか、単純に、私は何かを売るのが苦手だ。売るくらいなら、あげてしまいたいと思っている。しかし、それでは生活が成り立たないということで、誰もが何かの生産に関わり、大量生産と大量消費に貢献している。

ドラゴンボールのような組織(ユニオン)。


私達いばやのメンバーは複数名で構成されているが、基本的には常に別行動をしており、それぞれがそれぞれに活動をしているために、用事がない時はバラバラで暮らしている。しかし、何かしらの案件が入った時には全員が結集して、案件を終えたら即座に散らばる。その繰り返しの中を生きているために、まるで「俺たちはドラゴンボールみたいだね」なんて話したりしている。

ドラゴンボールは、全部集めると願い事が叶う。そして、願い事を叶えたら、再び世界中に散らばっていく。多分、これからの組織の在り方はこれに近いものになっていくのだろう。会社という組織のスタイルがいつまで持続するのかはわからないが、おそらく、会社という組織の中にいながら「動きづらさ」や「ある種の限界」を感じているひとは、日に日に増していると思う。

説明できることよりも「説明できないこと」に可能性は宿る。


大量消費や大量生産の問題は至る所で指摘されているが、しかし、この輪を自ら離れるというひとは少ない。多分、私達のように「金を稼ぐのがあまり得意ではないひとたち」は、それなりの数がいると思う。その先駆者になるべく(というのは嘘で、あまりそういうことは考えていない)いばやという活動や存在を通じて、新しい「会社の在り方(組織の在り方)」のようなものを無意識の内に模索しているのかもしれない。

いばやは「昔に戻りたい」とは思わない。それよりも「次に行きたい」と思っている。自然回帰や自給自足や霊的世界やスローライフやダウンシフトなど(疲れている人に対する処方箋のような生き方)にも、それほど興味はない。社会は未来に行きたがっているから、まだ、名前が与えられていないこと(制度が追いついていないこと)をやりたいと思っている。要するに「説明できないこと」をやりたいと思っている。

お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。


乱暴に言い換えるならば「お前の生き方は美しいから、もっと生きろ」と言ったような感じで、何かの対価としてではなく、古い言葉で言えばパトロンのような存在が「あなたたちがいる世界の方が嬉しいから」というような理由で、その組織や個人を生かすための環境や何かを整えてくれる。このような組織や個人のアーティスティックな在り方は、徐々に増えていくのではないだろうかと感じている。

いばやの活動をはじめてから、様々なひとと出会う機会に恵まれた。そして、私は出会う人々を通じて、自分自身の好みを再認識するようになった。多分、誰かのためとか言い始めた瞬間から、ひとはつまらなくなるのだろう。こどものためとか地域社会のためとか世界平和のためとか、これからの日本のためとか、そういうことも素晴らしいことなのかもしれないが、正直に言えば退屈に響く。それよりも、徹底的に自分のためにやっているのだと言えるひとの清々しさが私は好きだ。

「お前の生き方は美しいから」とか「お前の生き方は面白いから」とか「お前がいてくれるだけで嬉しいから」といった理由だけで生き延びるようになるひとは、多分、これから増えていくのだろう。人間には役割がある。まずは、自分の役割を自覚する所からはじまるのだろう。

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お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【OOL-シンガポール】生活に最低限必要な10の荷物と、個人的におすすめの逸品。

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ゴールドコーストを経由してシンガポールに入った。台湾の台風の影響で飛行機が8時間ほど遅れ、シンガポールの予定が頓挫するばかりか、チャンギ空港で夜を明かす羽目になってしまった。しかし、不運は不運だと思えば不運になるが、絶好のチャンスだと思えば絶好のチャンスにもなるし、修行(遊び)だと思えば修行(遊び)にもなる。どうせならば「どこでも眠れる身体になろう」ということで、快適な野営の方法を模索していた。

身も蓋もない話をすれば、快適な方法よりも「快適な身体(快適な精神)」であることの方がよっぽど重要になる。急性胃腸炎の状態で野営を楽しむことはできないし、実の父親が危篤との知らせを受けている状態でスヤスヤと眠ることはできない。健康な身体と健康な精神があってこその野営だ。そして、突然の空港泊などの場面で非常に活躍する最高の逸品がある。最近の自分の所持物と共に、簡単に紹介させていただきます。

生活に最低限必要な10の荷物。

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1・スノーピーク「ヴォレ25」
2・モンベル「コンパクトマルチシート」
3・スキンズ「A200ロング(上下)」
5・iPad
6・マネークリップ
7・各種充電器
8・三日分の服と下着
9・各種洗顔用具
10・本(老子の思想)

1・スノーピーク「ヴォレ25」

基本的な荷物はすべてこのリュックにいれて運んでいる。今年の冬頃には「バックパックなんてダサい!」ということで、すべての荷物をトートバックに入れて『バックパッカーよりもトートバッカー』などとほざいていたけれど、いまではこちらのリュックを使用している。冬にトートバックを愛用していた本当の理由は、着ていたコートにリュックが似合わなかったからだ。

これは完全に余談だけれど、最近のファッションテーマは「家がありそうな人」である。誤解を恐れずに言うと、わたしは自称旅人やバックパッカーの人たちとあまり仲良くなることができない。「坂爪さんも旅をしているんですよね?」などと言われると「してねーし!(家がないだけだし!)」と思ってしまう。パッと見では普通に生活していそうなのに、実は家がない、というギャップをどれだけ演出できるかに重点を置いているために、出来る限り荷物の量は減らしたいと思っている。

(余談を重ねると、このリュックは福島県に住む方からスノーピーク本社にて購買していただいた。福島県に足を向けて眠ることはできない)

2・モンベル「コンパクトマルチシート」

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今回のブログ記事を書こうと思った最大の動機は、これだ。私は幾度となくこの商品に助けられた。緊急時におけるエマージェンシーシートのようなものであり、薄いアルミホイル的なものでできているために、これで全身を包めば羽毛蒲団ばりの温熱を維持することができる。

いままで様々な場所で野宿をしてきたが、基本的にはリュックを枕代わりにして、全身をこのシートに包んでダイレクトに床の上で寝ていた。もちろん、コンパクトな寝袋やマットレスなども販売されてはいるものの、あれらは非常に高級である上に荷物も増える。噂によれば布団は柔らかいよりも硬い方が身体に良いとも聞いたので、床で寝ても完全に疲れがとれるボディになったら最強だ、ということを思い立ってからは基本的にはこれだけでどうにかなっている。

別に「野宿なんてしねーよ!」という人でも、機内の冷房が効きすぎている際はブランケット代わりになるし、海辺や公園などで広げればレジャーシート代わりにもなる。これだけ多用で、これだけコンパクトであるにも関わらず、1000円程度の非常に手頃な値段で手に入る。「どこでも眠れる」ことは強さだ。緊急時の備えに買っておくのも良いだろうし、試しに羽田空港などで朝焼けを待ちながら野宿をしてみるのも貴重な体験になると思う。


3・スキンズ「A200ロング(上下)」

これも持っていて非常に良かったと思えるグッズのひとつだ。要するに高性能のタイツであり「着るマッサージ」とも言われていて、ロングフライトの際もこれがあれば疲労を最小限に抑えられる。高城剛氏も「皮膚が一枚増える」ようなものだと言っていたが、まさにその通りで、実際に着てみると「うおー!」という言葉に出来ない感動に包まれる。

この商品の難点は非常に高額であるということで、上下で買うと合わせて二万円以上する。私は、これを、去年のクリスマスに名古屋に住む非常に心優しい方から購買していただいた。名古屋に足を向けて眠ることができない。日常的な姿勢も矯正されるので、気になる方は是非調べて見てください。

4・iPhone5s


ブログやTwitterなどで使用している写真は、すべてiPhone5sで撮影をしている。もう少し綺麗な写真が撮れたらなあとは思うものの、これはこれでそれなりの役割を果たしてくれているためになかなか新しい機種を購買する気持ちが起こらない。

思えば、iPhoneの登場により「金をかけなければできないこと」というものが一気に減少したような気がする。Googleマップがあれば道に迷うこともないし、動画の閲覧や英会話の勉強はPodcastで無料で可能になり、世界中にWi-Fiは飛び交っていて、電話も無料、航空券の予約も一発、電子書籍やブログやラジオなどの情報発信もほとんど無料、これは百年前の王様がどれだけ求めても味わうことができなかった贅沢であり、ものすごい時代に生きているのだということを実感する。

5・iPad

私はパソコンを持参する代わりに、キーボード付きのケースを付けたiPadを持ち歩いている。iPhoneの電池が切れた時の代わりにもなる(充電器も同じ)し、ブログ記事の更新や長文メールの返信などは、基本的にiPadからしている。

このiPadも、新潟に住む私の姉の旦那さんから「どうせお前は無力なんだろ?」ということで、去年の春頃に購買していただいた。それ以来、私はパソコンを所有することをやめた。パソコンがなくても何も困ることは起きていないが、新潟に足を向けて眠ることができなくなった。

余談だけれど、先日訪れたバルセロナの小学生たちは、教科書の代わりにiPadを持って登校していた。すべての教科書はiPadに入っているために、iPadさえあればすべてが事足りるのだ。出版社は大変になるだろう。親からしてみれば学年ごとに大量の重い(高額な)教科書を買う必要がなくなるために助かるのだけれど、賛否両論あるらしい。しかし、時代はそういう方向に向かっているのだと思う。

6・マネークリップ

STORUSというブランド(?)のマネークリップを愛用している。紙幣以外にも五枚までカードを挟めるようにできているために、一番表側にそれとなくエポスのゴールドカードをちらつかせてはいるものの、完全に見栄で、中身は空っぽだ。小銭はそのままポケットに入れる(それがワイルドだと思っている)か、溜まると鬱陶しいのでレジ横の募金箱にスラムダンクしている。

7・各種充電器

母親譲りの巾着袋に入れて持ち運んでいる。これも完全に余談だけれど、稀に「坂爪さんは捨て子なんですか?」と尋ねられることがある。が、そんなことはない。新潟に帰れば普通に両親は元気に暮らしているし、仲も悪くない。ただ、だからといって両親が私の活動(?)を理解している訳でもない。顔を見るたびに「お前はいつまで馬鹿をやっているんだ」と言われてしまうが、私も私で「いまに見ておれ」と不敵な笑みで返している。お互いが「元気でいてくれたらそれでいい」と思っている。理解はないけれど、愛はある。それだけで充分なのだと思っている。

8・三日分の服と下着

圧縮袋に三日分の服と下着を詰めて運んでいる。正直に言えば、たいして汗をかいていない日などは連続して同じ服を着ている。数少ない服で暮らす最大のメリットは「着る服を選ぶ時間がなくなる」ことであり、基本的にはローテーションなので今日は何を着ようかな、などと悩む時間が人生から消えた。誤解されると困るが、私は消費活動を否定したい訳では微塵もなくて、基本的には買い物は好きだ。新しい服を選ぶ時などは非常にわくわくする。自分に似合う服が安く手に入った時などは、大勢の人の目の前でダンスをしたいような気持ちにもなる。

ここでお勧めしたいのがユニクロの「ライトダウンジャケット」で、先日、はじめてこの類の商品を購買したのだけれど、想像以上の出来の良さに何度も助けられた。移動が多い生活は寒暖の差も激しく、昼間は半袖でも夜にはコートが必要になる場面も多い。そういう時に、さっと取り出せて荷物にもならならこの商品が活躍するシーンは多い。色は青だ。

9・各種洗顔用具

いつでも飛行機に乗れるように、ジップロックに洗顔用具を詰めて持ち歩いている。とは言っても歯ブラシと髭剃り程度であり、シャンプーやクリーム類などは持参していない。当初は「シャンプーを持ち運ぶのは面倒くさいなあ」などと思っていたが、色々と調べてみると『湯シャン』なるものを発見して、試してみたらどうにかなった。あったらあったで助かるのけれど、なければないでどうにかなるということを知ることの中には新鮮な楽しさがあった。

これも余談だけれど、わたしは手拭いを愛用している。バスタオルなんて、とてもじゃないけれどかさばるために持ち運べない。手拭いの速乾性は異常だ。そして、だからこそホテルなどでバスタオルが自由に使える時などは「最高に贅沢な気分だ!」というような気持ちになる。要するに裏表であり、野宿も同じだ。野宿はまるで快適ではない。しかし、だからこそ翌日はホテルのベッドで眠れた時などは「極楽浄土はここにあり」という気持ちにもなる。闇があるから光があるのだ。

10・本(老子の思想)

「坂爪さんは老子に似ていると思うんです」という言葉と共に、東京に住むオリエンタルガールから貸していただいた。紀元前に書かれた随分と昔の本であるにも関わらず、酷く根源的なことが書かれている。当時、まだ飛行機も船も車も何も無かった時代に、これだけの普遍性を獲得できることには敬服する。

去年の今頃、私は日本全国47都道府県を巡っていた。そして、今年に入って世界各国を巡るようになり、多分、来年からは「自分の内面を巡る」ターンに入るのだと思う。稀に「坂爪さんはいろいろな場所に行けて良いですね」などと言ってもらえるが、海外で自由の風を感じることは簡単だ。重要なのは、俗世の中でも自分を保つこと、精神世界を拡張すること、そして、人間全体として膨れ上がることの中にある。

まとめ「(別に真似をする必要は微塵もないけれど)なければないでどうにかなる」

家のない生活をはじめて、およそ一年半の時が流れた。このような生活がいつまで続くのかもわからないし、明日になったら突如として家を持つようになるのかもしれない。ただ、この生活をしていなければ絶対に会得しなかったであろう幾つかの発見があったことは確かだ。

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そのうちのひとつが「なければないでどうにかなる」ということだ。家も、金も、バスタオルも、なければないでどうにかなる。別に「持たない」必要はないけれど、持たない生活を試してみることの中には楽しさがある。あることを楽しむことには慣れてきたけれど、ないことを楽しむためには知恵がいる。この「知恵を働かせている感」が脳味噌のある部分を刺激して、楽しさを感じる何かを分泌しているのかもしれない。

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もちろん、日々のすべてが喜びに満ち溢れている訳ではない。寂しくなる時は寂しくなるし、自分の無力感に打ちのめされる瞬間もあれば、悲しんでいる人に何も声をかけることが出来なかった苦しさもある。ただ、それらは記憶として蓄積される。その瞬間はわからなかったことでも、時間の経過と共にわかることがある。


私には、過去に半年間寝たきりの状態だった時期がある。生きていれば色々と面倒なこともある(泣きたくなることもある)けれど、それでも、あの頃に比べれば全然マシだ。誰にでも、そういう地獄の時期があったと思う。それでもいま、こうして無事に生きているということは「どうにかなってきた」ことの最大の証明であり、人間は、自分が思う以上に様々な問題を乗り越えられるようにつくられている。自分を信じるということは、多分、自分に宿る生命力を信じるということだ。


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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【SIN-バトゥ洞窟】傷つく前に傷つくな。

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シンガポールを経由してクアラルンプールに入った。クアラルンプールは多様な人種の動物園のようだ。イスラム教徒やヒンズー教徒や仏教徒などが混在しているために、東洋的混沌に満ち溢れている。隙間時間に、バトゥ洞窟にあるヒンズー教徒の聖地に足を運んだ。其処では「神は静けさを好む」ということを思った。


クアラルンプールで思うことあれこれをまとめます。


1・真っ向から自分の意見を否定されても、それでも、自分が好きなものには好きだと言えるか。


自分を持つということは、自分が好きなものを持つということと似ている。そして、自分の生き方を見失っているときは、自分が好きなものを見失っている場合が多い。自分の価値を決めるのは、多分、自分がどれだけ愛されているかという受動的なものではない。愛されているから価値があるのではなく、自分から愛を生み出していけるから能動的な側面に価値は宿る。自分が嫌いなものにエネルギーを奪われてしまうと、自分が好きなものを見失ってしまう。自分を持つということは、真っ向から自分の意見を否定されても、それでもなお、自分が好きなものには好きだと言える強さだ。


2・本来、人間の衝動は説明不可能なものだ。


周囲の理解を求めたり、何かを説明することにエネルギーを注ぐことで、自分が本来やりたいと思っていたことに対するエネルギーが枯渇してしまうのは本末転倒だ。エネルギーの最適な使い道は、周囲の理解を求めるためでも、何かを説明したり、自分の正当性を主張することでもなく、自分がやりたいと思うことに脇目も振らずに全身全霊を注ぐことだ。その姿勢が、その後ろ姿が、その生き様が最大の説得力になり、触れるひとの心を動かす。


3・「よし、失敗してやろう。駄目になってやろう」と覚悟を決める。


何かをやりたい、しかし、自信が足りない。何かがこわくて次の一歩を踏み出せない。そういう時は、大抵「失敗を恐れている」だけに過ぎない。しかし、失敗とは何だろうか。最大の失敗とは、失敗することを恐れて、やりたいと思っていたことを何もやれずに後悔する日々を過ごすことではないだろうか。駄目なら駄目でも構わない。駄目だからこそ面白いんだと腹を括って、成功するためではなく失敗するために飛び込んでみる。そう決めた時に、自分の内側から不思議な力が湧いてくる。



4・自分が駄目だと思う道は、自分が行きたい道なのだ。


人間が行動のモチベーションにできるのは「不安」か「希望」のどちらかだと思う。そして、多くの場合は不安がベースになってしまう。損をしないために、不利にならないために、失敗しないために、自分や家族や大切な何かを守るために、失うことを恐れる「不安」をベースに次の行動を決めてしまっては、永遠に不安から自由になることはできない。

人間は不思議なものだと思う。不安をベースに行動をしても、常に「このままでいいのだろうか」という不安を感じてしまう。これは、多くの人々にとって「生活のためだけに生きるのは虚しい」と感じる何かが隠されているということではないだろうか。本当は、もっと張り裂けるような日々のど真ん中を生きてみたい。心の底から「いまの自分は生きている」と実感できる何かを求めている。こっちの道は危険だ。自分が駄目になってしまうかもしれない。しかし、どうしても自分をごまかすことができない。自分の気持ちに嘘はつけない。自分が駄目だと思う道は、自分が行きたい道なのだ。


5・駄目なら駄目でも構わない。


様々な環境要因が「お前の選択は大丈夫じゃない」というメッセージを放っている。そんな生き方が通用するはずがない、いまのままの自分では通用しない、お前は足りていないところばかりで、自分ひとりでは何も守ることはできないなど、常に欠落を煽って人間の可能性に蓋をする。しかし、これさえあれば自分は大丈夫だと思える何かはあるのだろうか。これができれば次の一歩を踏み出せるけれど、これができなければ次の一歩を踏み出すことができないということが、この世の中になにかひとつでも存在しているのだろうか。

自分に限界を設けているのは、多分、他の誰でもない自分自身だ。自分が自分に「大丈夫じゃない」というメッセージを放ち続けている限り、永遠に現在を抜け出すことはできない。自信があるからやるのではなく、自信がなくてもやる、やりたいと思ったからやる、そういう決意の凄味の先に、自分オリジナルの魅力が宿るのだろう。駄目なら駄目でも構わない。重要なのは「潔く、清々しくあること」だと思っている。


6・傷つく前に傷つくな。


失敗を恐れるとか、誰かに嫌われることを恐れるとか、食えなくなることを恐れるとか、人間の行動を抑圧する最大の原因は「傷つきたくない」という恐怖心であり、傷つくことを恐れて身動きがとれなくなっている時、その人は既に「恐怖心」によって自分を酷く傷つけてしまっている。傷つきたくないという自分の恐怖心によって、自分を傷つけてしまってはいけない。


7・自分が嫌いなものではなく、自分が好きなものに使ってこそのエネルギーだ。


自分は駄目だと思うことに何の価値も意味もない。そして、自分は駄目だという声は、常に自分の外部から聞こえているはずだ。自分の内側から「自分は駄目だ」という声が聞こえてくるはずがない。そういう声はノイズであり、自分が嫌いなものに自分の貴重なエネルギーが奪われてしまっている証拠になる。自分が嫌いなものにではなく、自分が好きだと思うものに使ってこそのエネルギーだ。使い道を間違ってしまってはいけない。


8・自分を守ろうとするから弱くなる。


自分には力がないというのは簡単だ。しかし、そう言うのは卑怯だ。多分、この世の中に「力」のある人間なんていない。届きそうな何かに手を伸ばし続けている人間と、手を伸ばすことを諦めた人間がいるだけだ。誰もが無力で、誰もが弱く、誰もが小さい。自分を守りはじめた瞬間から弱くなる。それが人間だと思う。そんな時は「小さい!小さい!」と、小さな自分を笑い飛ばす、笑い飛ばすことが難しい場合は「たかがこんな自分は」と、弱い自分を蹴飛ばしてみる。自分を守るのではなく、自分を壊す。自分を壊すことで、パアッと開く命がある。


9・自分が嫌いなものではなく、自分が好きなものに使ってこその命だ。


自分の生命を注ぎこむに値する何かと出会ったとき、もう、自分の命がどうなるかとか、安定した生活がどうだとか、誰かに笑われるとか嫌われるとか馬鹿にされるとか、そういうことがどうでもよくなる。ただ、自分の残された命を、このために使っていきたいという思いになる。楽しくもないのに楽しい振りをしたり、笑いたくもないときに愛想笑いを浮かべたり、やりたくもないことをやらなければいけない、そういう自分を擦り減らす努力をしている時間は、自分が進む道の間違いを指摘している。


10・神は賑やかな場所を好まない。ー 自分の中に静寂を養うこと。


世の中には様々なノイズが溢れている。これらのノイズ達は「お前は大丈夫じゃない」とか「お前の選択は間違っている」とか「お前のままでは通用しない」とか、様々な言葉で様々なストッパーをかけてくる。自信を奪い、迷い、立ち止まらせる。しかし、こうした声は常に自分の外側から聞こえてくるものであり、決して自分の内側から湧き出してくる言葉ではない。

自分を取り戻せる言葉には、多分、正しさだけではない「嬉しさ」がある。それは自分が愛する風景を眺めている時のような、自分が愛する人たちと過ごす時間の中に流れている空気のような、自分が愛する物事に取り組んでいる時に感じる無心のような、独特の静けさがある。バトゥ洞窟で「神は静けさと共にある」ということを思った。神は賑やかな場所を好まない。必要なものは既に備わっている。自分の中に静寂を養うこと。余計なものを付け足していく「足し算」的な思考ではなく、余分なものを削ぎ落とした先に残るもの、それが自分自身になるのだろう。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com

【KUL-新潟】偶然を偶然と思わないこと。

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クアラルンプールを経由して新潟県に入り、内野駅前にあるイロハニ堂さんという素敵なカフェで小規模なイベントに出演(?)した。日本海に沈む夕陽が綺麗だった。最近は静かな日々を過ごすことができていて、自分や、自分を取り巻く環境について、落ち着いて考えることができる。


自分を擦り減らすような相対的な比較や競争から距離を置くこと。絶対的な自分に集中すること。これらからはじまる最近の自分の感想は、新潟で行われたイベントで強化された。このイベントでは、数日前に訪れたスペイン&モスクワ滞在についての報告も兼ねていた。

一回死ぬことで開く扉がある。

この日のイベントで話された内容を乱暴に要約すると「一回死ぬことで開く扉がある」というものになる。その日、スペインにて様々なアクシデントに見舞われた我々の所持金が限りなく0円に近づいて死にかけた話をした。このままで日本に帰ることすらままならないという状況に陥った私たちは、さて、どうしたものか、このままスペインで無様に野垂れ死ぬのだろうか、嫌だな、などと思っていた。そのような状態に置かれていた時に、奇跡は起きた。

結論から言うと、私たちを助けてくれる様々な出会いに恵まれて、私たちは難を逃れた。難を逃れたばかりか、金がある時には想像もしていなかった素晴らしい出来事に遭遇することができた。何かがある時よりも、何かがなくなってからの方が面白い目に遭遇することができたのだ。ゼロになることで膨れ上がる何かがある。この現象には何かのヒントがあると感じていた。


「最初に心が諦めるんです。でも、身体は全然元気なんです!」という高橋尚子選手の笑顔。

私と一緒にスペインとモスクワを訪れたK氏は、過去に一度だけ新潟でフルマラソンを完走したことがある。その日、彼は35キロ地点で力尽きた。自分の体力を完全に使い果たしてしまった。前に進みたくても、身体がまるでいうことを聞かない。足を前に動かすだけでも精一杯で、とてもじゃないけれど42キロを走りきることは不可能だと思われる状態に置かれていた。

「もうダメだ」と思っていたK氏の後方から、ふと、新潟マラソンのゲストランナーである高橋尚子選手が満面の笑顔で走ってきた。高橋選手はK氏を見て「ほら!お兄さんも一緒に走るよ!」と声をかけてくれた。K氏は舞い上がった。どうしようもないレベルでうれしくなってしまって、いままでの疲労が嘘のように、再び高橋選手と走りはじめた。高橋選手はそんなK氏を見て「全然走れるじゃないですか!」と、満面の笑顔で声をかけてくれた。

「最初は心から諦めるんです。でも、身体は全然元気なんですよ!」と、高橋尚子選手は言った。K氏は、自分の身体に起きている不思議な変化を目の当たりにしながら、本当にその通りだなあと思っていた。そして、驚いたことにそのまま42キロを高橋選手と同じスピードで走りきることに成功した。


奇跡はひとを通じて運ばれてくる。

他にも様々なエピソードを話したけれど、人間は、生きていれば、何度も「もうダメだ」と思われるシーンに遭遇していると思う。所持金が0になったり、体力が0になったり、試験に落ちてみたり、鬱病になったり統合失調症になったり椎間板ヘルニアになってみたり、借金にまみれてみたり、もうダメだと思われる地獄の時代が、誰のもとにもひとつやふたつはあったはずだ。

それにも関わらず、私たちはいまも平気で生きている。所持金が0になって「もうダメだ」などと思っていたら、思わぬ奇跡が舞い込んで素晴らしい目に遭遇できる状態に置かれたりした。体力が0になって「もうダメだ」などと思っていたら、高橋尚子選手の登場により嬉しさが舞い上がって、自分でも驚くほどのスピードでフルマラソンを完走できた男もいる。この現象は何だろうか。一度ゼロになることで、ゼロにならなければ決して味わうことができなかった素晴らしい出来事に遭遇することができる、この不思議は何だろうか。

ひとつだけ言えることは「奇跡はひとを通じて運ばれてくる」ということだ。私たちが所持金0でスペインを乗り越えられたのは、私たちをマヨルカ島に呼んでくれた人の存在による。K氏がフルマラソンを完走することができたのは、高橋尚子選手という人間の存在がとてつもなく大きい。いままでの人生を振り返って見ても、自分の人生が大きく動き始めたのは、誰かしらとの出会いがきっかけとなっている。奇跡は「ひと」を通じて運ばれてくる。

偶然を偶然と思わないこと。

数年前から「家を持たない生活」という酔狂なことをはじめて、それ以来、様々な奇跡に恵まれている。当たり前のことかもしれないが、こうした奇跡の大半は「ひと」を通じて運ばれている。誰かとの出会いが、自分の人生を大きく変えることがある。そのためには、常に自分の意識を(クローズドなものではなく)オープンにしておくことが大切なのではないだろうか、そういうことを思っている。それは決して「常にワクワクしている」とか「楽しいことだけをやる」という自己啓発的で浮ついているものではなく、冷静でいること(自分のチューニングを保ち続けること)であるように感じている。

そのためのささやかなヒントとして「偶然を偶然と思わないこと」があると思う。多分、私が家のない生活をはじめたことも、いま、こうして様々な場所を転々としながら暮らしていることの中にも、何かしらの意味やメッセージが含まれているのだろう。それを汲み取ることができた時、毎回、何かしらの奇跡が生じている。そんな気がしている。逆に言えば、不安や恐怖や猜疑心から、自分をクローズドなものにしてしまっている(瞬間を粗雑に扱ってしまっている)時に、不思議な展開を見せることはない。

ほんとうは、自分が見逃してしまっているだけで、目の前では常に様々な奇跡が展開しているのかもしれない。どうにかして気づくことができたほんの僅かな奇跡を頼りにいまを生きることができているが、実際は、途方もない数々の奇跡が目の前に展開されていて、手を伸ばせばいつでも届くところに、星々の瞬きのように目の前を浮遊しているのかもしれない。自分はなぜここにいて、自分はどうしてこれをしているのか。偶然を偶然と思わないことの中に、新しい突破口が含まれているような気がしている。

自分を擦り減らすような相対的な比較や競争から距離を置くこと。


偶然に気がつくためには、自分を冷静な状態に保っている必要がある。自分のチューニングを乱してくるものは、外的要因である場合が多い。自分を擦り減らすような相対的な比較や競争から距離を置くこと。絶対的な自分に集中すること。偶然を偶然と思わないこと。ふとした瞬間の閃きを大切に扱うこと。目の前にいる人間や自然のしっかりと見ること。表面的な言葉や態度の奥にある、見えない何かに届くまでしっかりと寄り添うこと。

夕陽を見ていると「今日も生きた(明日もしっかりと生きよう」という感覚になる。一日にピリオドを打つための、個人的な儀式をしているみたいだ。一日をしっかりと終えることが、明日もしっかりと生きようと思えるエネルギーになる。日が沈む。空が染まる。今日が終わる。誰もまだ経験したことのない、明日が来る。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com
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